2020年2月15日土曜日

今日の想い 1055

原理は科学的というより論理的であり、現代人の理解認識に整合性を得るものとなっている。しかしあくまで聖書をベースにしていて、聖書の記述が正しいことが大前提だ。と言う事は聖書を信じるクリスチャンを対象にしているということになる。私達は原理を学ぶ過程で聖書が正しいことを受け入れた者が多く、いわば俄かクリスチャンだ。自分はクリスチャンではないと思っている食口もいるかもしれないが、それでも原理を通して入った者は俄かクリスチャンだ。では御父様を受け入れ、聖和された後には御母様を受け入れた牧師達は、果たして原理というみ言葉を論理的に理解したから受け入れたのだろうか。おそらく私達一世が受けいれたような理屈からではなく、神霊として内的霊的に受け取ったから御父母様を慕っていると思う。御母様が独生女だと、神様の一人娘だと断言されても、牧師達の動揺を思ってオロオロした私達の危惧とは裏腹に、彼らは当然の事のように御母様を受け入れている。逆に牧師達は御母様の言葉に動揺する者達を見て、所詮俄かクリスチャンだと思っているのかもしれない。では牧師達は先祖祝福に対してどう思っているか、また430家庭祝福に対してはどうか。実はこういった教条的な目標(ノルマ)に対しては先ず宗教者連合では食口に話すようには話もしていないだろうし、是々非々の各牧師、宗教者は話しても聞き流して終わりだろう。清平信仰は当然ないが、食口の信じるところを敢えて否定するものでもないというのが牧師達のスタンスだ。原理を聞かせて真の父母の価値を植え付け、そして祝福させるという選択以外に、様々な形で祝福へ至る道も用意されていて、そうなると食口は柔軟性を受け入れなければならない。アベル意識に偏ればカインを受け入れないように、祝福とそれに伴う責任に偏ってしまうとこの世と条件を満たさない者達を排他的に扱ってしまう。御父母様は一方で祝福を、その一方で恩赦を下さっている。日の当たらない者達への配慮が信仰を崩すものであるなら、それは自分に心地よいだけの天国を囲いこんで囲いの外の地獄をわざわざ作っていることになる。

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