2020年2月15日土曜日

今日の想い 1056

新たな7年路程が始まった、ようだ。2020年までの7年路程は基元節を正しく迎える為の延長路程だった。延長だから区切りをつける必要はなく、先天と同じ意識で歩めばそれでよかったとも言える。しかしその意識は先天意識であって後天時代を迎え後天時代に生きる意識とは言えない。人間は霊的存在だから霊界を認識しているしていないに関わらず、新しい出発をするためにはそれまでの歩みと区切りをつけ、それまでの歩みがどうであったか、そして新たな歩みの意味付けをすることによって出発できる。新たな船出は過去を総括してこその話だ。それがみ旨と摂理の次元の話であっても同じで、そこを曖昧にしたまま歩もうとするものだから食口の多くは内的霊的に変わりようがない。内的霊的に変わらないと現実の自分も変わらない。御父様は聖和された。この事実の内的意味をどれだけ問うただろうか。信仰において、摂理観において、そして組織の在り様においても深く問い続けてこそ新たな歩みへの意志を備えることができるはずなのに、総括して区切りを付けずにだらだらと負け癖を続けている気がする。2012年9月3日、御父様聖和のネットのニュースが先ず飛び込んできて、教会サイドから告げられたのは一日置いてからだった。私は御父様が聖和されたことを告げられた夜、祈りながら妻の目も憚らず嗚咽した。それは決して自分の感情からくる感傷的な涙ではなく、背後の霊界が私を通して一つの区切りを付けようとする儀式だった。感情から来るものではない自分の状態に自分が驚いていた。霊界全体が涙を流し雨に濡れる摂理的儀式だった。イエス様の時は血の犠牲を払われて霊界全体が血を流した。そして弟子達や多くのクリスチャン達は血を流す霊界の在り様を地上でも体現した。汗は地の為に涙は人類の為に血は天の為に。何度も言っているように統一教会は苦労の百科事典であり涙の絶えない群れだ。それは御父様も御母様からしてもそうだ。先天時代を総括し後天時代を出発するために私達がどう意志を差し出すのか。霊的に生きる者としての涙の総括は、論理だけで納得させてそれで良しとするのではない神霊から受け取ってこその総括であって、それを踏まえて後天時代の連霊性による統治摂理が始められる。

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