2020年2月2日日曜日

生活を原理化するために

原理を受け入れた私達は神様の存在を知っている。そして信じている。原理を受け入れた私達は霊界の存在を知っている。そして信じている。しかし神様を生活の中に掴んで生きていないし、霊界を信じるという言葉だけで霊界の働きを実感もしていない。神様も霊界も死んだあの世に追いやっていて地上生活とは何ら関わりがない。その状態を人に言わせれば盲目的という。見えないし感じないあの世のことだから、裁きの閻魔大王まがいの神様にも思えるし冠を付けておられる御父様の姿にも思える。また、罪状を首にかけて隠れるように生活する霊界様相かも知れないし宴の毎日が催される霊界様相かも知れない。ようするに見えないわからないあの世を訝り適当にイメージしながら、であれば言われるがままに行動すればあの世に行って損はないだろうと結論付ける。いわゆる打算的教条主義だ。しかしそれは原理の生活化とは程遠い。私達は、少なくとも御父母様と共に摂理を担ってきた者達であるなら、神様を掴んで生活すべきだし霊界の働きを痛いほどに肌に実感しながら生活すべきだ。その意志を差し出すことを辞めてしまえば、たとえ外的には御父母様に付き従っていたとしても精神の怠慢であって霊も真の神様も無視した生きた屍になってしまう。私は自分の作る偽りの神様像に対して愚弄したことがある。子供の事、妻の病の事、任せられている店の事、抱えきれないほどの問題を押しやられて私の感情は爆発した。耐えて耐えてきたが、私はヨブにはなれなかった。言われたこと決められたことを粛々とこなしていれば罰を受けることはないはずだという御利益信仰だった。その御利益信仰の対象こそ偽りの神様像だった。罰と思える人生の難事は実は引き受けることを決意してこの世に生まれ出でた犠牲的使命だった。偽りの神様像に目一杯悪態をついたあと、内面の内面から自らの使命に生きることを善しとする真の神様を掴む意志を備え始めた。良心は良神であり良心が良神として立ってこそ霊的柱が立ち霊的に生きる。

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