2021年10月26日火曜日

今日の想い 1118

私達が装う衣服や装飾は、過去の人類の形状と関係している場合が多い。神様は天地創造の時と同じくして人間の創造を開始されたのであり、鉱物的光の存在から植物存在としての人間の時期があり、そして動物存在の在り様を経て現代の人間存在の形状を取っている。動物創造の時代、人間は爬虫類のような形状を備えた時期もあったし、更に遡って植物創造の時代、人間は植物形状を備えた時期もあった。根である頭部を地中に埋めて、枝である四肢を空中に伸ばして活動していた。もちろん地球の様相も現代に至るまで変化してきたのであり、埋めていた当時の地中は光が濃縮されたような状態だったし、空中は未だ霊界地上界の境界すら明確でない混沌状態にあった。今の植物は形状に於いては人類の先祖にあたるというのは正しい。女性が装うスカートは実はこの植物時代の様相を表していて、降り注ぐ光に向かって花弁を開く花とスカートをリンクさせている。花が咲けば雄しべ雌しべがその役目を果たせるように、スカートは成熟した処女の在り様を表現している。雌しべは体中深く子宮の入り口である子宮頚部へと、人間的在り様にまで進化させているが、基本は植物の上下をひっくり返したのが人間だ。植物は自然の愛である光に向かって花開き、女性は真の愛を受けるべく花開く。

2021年10月23日土曜日

今日の想い 1117

 ユクムソクという障害のある夫婦の話が「平和の主人、血統の主人」の中に出てくる。御父様が住んでおられた村で暮らしていて、女性は足も使えず腰も伸ばせないが、目と耳と口は正常、男性は目が見えず、話もできず、手足も不自由で座ることもできない。そのような二人が結婚して、ある11月雪が降り始める前に、二人が御父様の故郷に訪ねてきて、松の木陰の夕焼けのとても暖かい所で、二人で食事を取りながら、二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについて、そのまま逝った。障害があったとしても結婚して一緒に暮らせば天の国が待遇してくれるという一つの例として、絶対「性」の重要性として話されたのだが、この二人を見る御父様の視点の素晴らしさが伺われて大好きな個所のひとつだ。おそらく普通の人であれば、何とも切なく可哀想で同情心を誘われるのだろうが、御父様はこの二人を可哀想だとは思っておられない。それは「喜びながら」と表現されているように、そこに夫婦の愛の喜びを他の感情の何にも増して見ておられる。神様が抱かれながら天の国に迎え入れる、その夕焼けに照らされる寄り添う二人を想像すれば、どれほど夫婦愛の美しさを御父様は二人に見ておられたのだろうかと思う。イエス様が道端で腐ったロバの死骸を目にされたとき、剥き出しの歯の白の美しさに感動されたという話とリンクして、対象の何に相対するかは主体がどういう存在なのかによるのであり、御父様が愛の理想に貫かれた御方であることをこの話は証明している。

2021年10月21日木曜日

今日の想い 1116 (真の愛とは)

 御言葉を読めば真の愛と生殖器とが大きな関わりを持っていることがよくわかる。関わるどころか、夫婦で一つになった生殖器こそ真の愛の本宮と語られている。真の愛の本宮、生命の本宮、血統の本宮、更には良心の本宮とまで語られている。これほどの生殖器をアダムエバは誤用したのであり、生殖器を荒らしたルーシェルは神様にとっては許しがたい姦夫ということになる。愛という言葉は誰もが知って使ってはいるが、しかしその概念はどこまでも抽象的であり捉えどころがなく、実体的存在感として捉えられるほどではなかった。イエス様の愛が霊的に留まっていると御言葉で説明されるのはそういう意味からだ。凹凸が一つになった生殖器こそ真の愛の本宮との御言葉こそ、愛の概念を実体的存在として表されたのであり、霊に留まっていた真の愛を地上に取り戻した人類歴史上最も画期的な愛の革命だろう。博愛はおそらく兄弟愛の進化形で、兄妹の関係からより深い関係性に入ると目をつぶって関知せずとなるが、一線を越えると神様が関与する愛というよりサタンが関与する愛と見たのだろうか。性欲という我欲が関与するのでそうなるのだろう。新約的には夫婦間に夫婦の愛というより兄妹の愛、博愛を暫定的に関わらせているように思う。コリント第一に「もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは結婚する方がよいからである。」とあるように、新約は結婚を奨励した位置にはなく譲歩した黙認に近い。夫婦の愛、さらには真の愛を人類全体として獲得するには、まだまだ神とサタンの配下達との攻防が祝福家庭の中ですら、いや祝福家庭だから尚更展開されるのだろう。

2021年10月20日水曜日

今日の想い 1115

 一通りその日の復興会講義を受けると、外は既に暮れていた。兄弟姉妹の明るい声が響く教会を後にして、途中で降り始めた冷たい雨に濡れながら、小汚い四畳半のねぐらに向かってトボトボ歩いた。孤独感が押し寄せて涙を流しながら、天の御父様と呼び続けてみた。そうすると御父様は私の身体に入られた。入られて思いっきり嗚咽された。天の御父様は私を通して涙され、私を包んで雨の涙も流された。これが私の聖霊体験だった。それ以来そんな体験は一度も無かったけれども、あの時この道こそが私の道だと確信した。その意味では私の入信動機に原理の真理は二の次だった。罪の認識もなかった私に罪を自覚する過程は献身してからであって、ただ生きることの意味も解らず怖く、死ぬことの意味も解らず怖い、やもすれば魂を分裂させる脅しの霊に憑依されて苛まされるだけの私だった。女性になどフォークダンス以外手に触れたこともなかった。罪からの救いを求めたわけではない。貧しい家で親は喰わせるだけで精いっぱいだった。食わせてもらったことが感謝だしそれが愛だといえば言えるのだろうか。その年代の親は多くがそんなものだった。しかし親の愛に包まれて育ったという感覚は薄いように思う。そんな親が私の苦しみを解決して安らぎを与えてくれるとは思わなかったからだ。親が初めて真摯に私に向き合ったのは教会に献身すると告げた時だった。親にしてみれば息子に捨てられ、教会に奪われた想いだったに違いない。その意味では私ならずとも食口は親に対して罪を犯している。私は信仰をもつことでもはや霊に苛まされることはなくなった。生きることの意味、死ぬことの意味もある程度理解して安らぎは勝ち取った。教会との出会い、祝福を戴いた御父母様との出会いは私を生まれ変わらせた。この事実は否定のしようがない。年老いた親は昔のことは何も言わないけれども、常におどおどしていた子供だったから私の変わりようには目を見張ったはずだ。今は親の面倒を見ながら、帰ってきた息子が傍らにいることで親は平安を取り戻している。私を受け入れることで親も兄弟も復帰されている。原理も真の父母も、教えたところで理解できるはずはないが、そんなことより真の父母によって生まれ変わったこの私を受け入れることで、御父母様を既に受け入れている。

今日の想い 1114

 1980年代の半ば、アメリカ摂理に投入されるべく多くの食口が渡米していった。私もそのひとりなのだが、その殆どは経済摂理であり水産摂理でもある水産卸業やレストラン業務として全米に割り当てられて送られた。まだ活動華々しい頃でいろんな食口がいたが、相当に頭のきれる者から浮浪者上がりの者まで多種多様に及んだ。あの頃の食口の面々を思い出すと、今の食口と名のつく者達のいかに似たり寄ったりの集まりかがよくわかる。よく言えば平準化教育が為されたということだろうが、悪く言えば飼い慣らされて毒気もなければ気概もない者達の集まりと言える。ビジネス畑に今まで携わってきて、成功してやろうと思えばある種の欲と狡猾さや私こそが正しいと断言する程の傲慢さも必要だとわかるのだが、今の食口にはこれらは最も縁遠い。良くも悪くも強い個性と熱い想いを持っていた当時の食口達はどこに行ったのだろうか。離れたのでなければ去勢され飼い慣らされて今の大人しい食口になったのだろうか。アメリカ入国書類のsex欄にMale,Femaleとある。そこに週一と書いた阿保な兄弟がいたという話、またそれを隣の席の兄弟が見て笑いながら、せめて週二だろうと真面目に提案したという兄弟の話を又聞きし大笑いしたことがあったが、常識もなく頭はそれほどに悪くとも熱情と気概だけは大きかった。昔は多種多様な兄弟がいて、また目を見張るほど清く美しい姉妹もいて、それぞれに希望や夢を語ってそれがまた楽しかった。みんな相応に歳を取って丸く大人しくなってしまったのだろうか。人生の終末期に入り自分の人生を含めて摂理を担い走ってきた総括を、と思ってそうなのだろうか。私だけなのだろうか、今どんな責任者や牧会者の話を聞いても心躍らないし胸の内に届かないのは、、。アボジがアメリカを去られる前にアメリカ摂理の失敗と国の斜陽を語られたのは確かだ。しかし新たなアメリカ中心の世界摂理の明確な話をその後聞いたことがない。Eastgardenで語られた「平和の主人、血統の主人」は、アメリカ摂理の失敗をワシントンDCの大会後の祝勝会で話され、その数日後に語られた御言葉だ。予言とも言われる不可解な言葉が並んでいて、何度目を通しても理解できない箇所が多いのだが、ついて来たい者はきなさい、好きなようにしなさいという、なんとも投げやりともとれる言葉を吐露されていて、この言葉をどう受け取ればいいのか未だに天に尋ねている。

2021年10月14日木曜日

今日の想い 1113

為に生きろと言われて、その意味を問う者は誰もいないのだろうか。為に生きる人生こそが真の愛の人生だとすれば、為に生きるとはどういうことかを追求する必要があると思うのだが、、。人前に立って説教する牧会者のように、愛だの為に生きるだのの言葉を使っていれば愛に生き為に生きている錯覚を覚えて自己満足している浮いた存在になるのではなく、私自身が愛であり為に生きる存在だといえる実体としての真の愛の果実とならなければならない。為に生きるとは与えて忘れることとあるけれども、何を与えるかとなると相手の必要なものを与えてこそ与えたことになるのであって、相手の身にならないもの、毒となるものを与えても与えたことにはならないだろう。親としては子に与えていると言いながら、実は甘やかせていて子に取っては毒になることも往々にしてある。教会活動としてひたすら献金に精を出すことが本当に為に生きることだろうか。祝福を数だけこなすことが為に生きることだろうか。与えることの意味をよくよく学ぶ必要があるのだろうが、正直なところ自分なんかはなかなか学びに至らなくて与えるところまで届かない、との言い訳は通用するだろうか。わからなくともわからないなりに祝福伝道と献金に邁進すべきだろうか。私達は先天時代を通してずっと学んできた。そしてわからないままに活動してきた。為に生きて来たのではなくずっと学んできたしただ活動してきた。数多の修練会に参加し御父様の御言葉漬けで学び続けてきた。後天時代に入りいよいよ本領発揮、与えること為に生きることを実践する時代圏に入ったのだが、さあどうしよう。

2021年10月11日月曜日

今日の想い 1112

 この世にはこの世の倫理的イメージという善人の枠組みがある。それは国によっても違うイメージであり宗教によっても違い、また世代間でも異なるイメージだ。この倫理的イメージという善人の枠組みを外れるときに人は批判的になる。しかし人が批判的に見ることが神様が同じように批判的に見るかというとそうはならない。統一教会にも特有の倫理的イメージがあり、それを神様が捉える善人の枠組みだと信じている。それは統一教会特有の神観であり、しかしここが重要なのだが、御父様の神観は私達教会食口のそれとは異なっている。そんなことはないと言う者は、例えば「夜の神様、昼の神様」という御言葉を理解しようとしないまま無視したままでいるのはどういうことか。複数であるかのような神様を受け入れられないし、ましてや両者の間に闘いがあったことなど全く受け入れられない。み言葉が素晴らしいのは、変えがたき経典としての御言葉ではなく、川の流れに例えられたように、御言葉そのものが形を変えて変化していくことを内包しているからだ。変わっていく御言葉の器を通して絶対不変の真の愛を学べる御言葉だからだ。倫理的イメージを固定化させ絶対視すべきではない。善人の枠組みを固定化させ絶対視すべきではない。私が自分の良心に問うて最も取り払うべきは教条的な信仰観だ。先天時代の、あの厳しい取り決めの枠に抑え込んで自分の信仰を繋いできた私が、後天時代に入って解放されるべきは先ず教条的信仰観からの精神的自由であり解放だ。先天時代の信仰を堕ちず離れず死守してきた食口は、その土台の上に、宗教を超えた位置で後天時代を迎えるべきだ。もはや凝り固まった倫理的イメージに左右されず善人の枠組みを超えて真の愛を求めるべきだ。あれほどに放蕩三昧されてきた御子女様を御父様はどう受け入れられたのか、更に天国の門番の位置まで与えられた意味を問うべきだ。御父様は倫理的イメージに左右されてはいない。であれば私達は二世に対してどうあるべきか。少なくとも受け売りされた信仰観を押し付けて神の愛だ親の愛だと強要すべきではない。

2021年10月8日金曜日

今日の想い 1111

 お互い知らない者同士がマッチングされて結婚に至れば、感情からではなく先ず夫婦一体の形から入り、夫婦愛の本質は一体の形の中に見出していくことになる。相手が自分の好みではないとしてもそれを抑え性を立てて夫婦一体の形から入るのだが、感情に囚われての性の使い方ではなく、み旨への思考から性を使っている。それは血統を重要視する父母様と、そして子女である私の関係という子女の愛を立ててのことで、そこにはみ旨要求の意味はあるとしても、夫婦の関係である夫婦の愛を立てての行動ではないことを認識すべきだろう。遠回しではなくストレートに言うと、食口の女性は美しくないし愛の行為に重きを置いていない。敢えて言えば夫婦の愛を蔑ろにしている。祝福カップルは別れないことを当然のこととしているから、夫が妻に対して異性としてどう思っているかは妻は差ほど関心もない。かえって夫の性への欲求を罪とみて否定する妻が多かったりする。罪は行動そのものを言うのではなく方向性を間違えているから罪なのであって、妻の美への追及心のなさや淡泊な行為を何とも思わない方が、夫の男性としての存在を無視し夫婦の愛を蔑ろにしているという意味で罪ではないだろうか。離婚率の低さを誇るとしても、その理由として夫婦の愛が強く働いていてそうなのか、それとも離婚は罪だから仕方なくなのかよく見る必要がある。私とすれば食口である夫は信仰の理屈と妻の態度から男の性を去勢され、夫婦の愛を培い夫婦一体からの主体対象授受作用による創造的夫婦とはなりにくいと思っている。しかしだからといって離婚したほうがいいと提案するつもりは全くない。いつも考察する時に根底に置くべきは霊的な観点に立っているかだ。この世とはうらはらに性の解放を抑えられることでこの世の男性以上に性を考えるのでありその意味を問うのであり、夫婦愛の究極の形としての性への理想追及力を自ずと募らせる。その力は霊的な力であり愛の本質、真の愛を理解し求める力だ。今は視覚的であろうが五感的であろうが性は安売りされ簡単に手に入ってしまう。しかし簡単であればあるほど、その本質は逆に遠ざかる。