この世にはこの世の倫理的イメージという善人の枠組みがある。それは国によっても違うイメージであり宗教によっても違い、また世代間でも異なるイメージだ。この倫理的イメージという善人の枠組みを外れるときに人は批判的になる。しかし人が批判的に見ることが神様が同じように批判的に見るかというとそうはならない。統一教会にも特有の倫理的イメージがあり、それを神様が捉える善人の枠組みだと信じている。それは統一教会特有の神観であり、しかしここが重要なのだが、御父様の神観は私達教会食口のそれとは異なっている。そんなことはないと言う者は、例えば「夜の神様、昼の神様」という御言葉を理解しようとしないまま無視したままでいるのはどういうことか。複数であるかのような神様を受け入れられないし、ましてや両者の間に闘いがあったことなど全く受け入れられない。み言葉が素晴らしいのは、変えがたき経典としての御言葉ではなく、川の流れに例えられたように、御言葉そのものが形を変えて変化していくことを内包しているからだ。変わっていく御言葉の器を通して絶対不変の真の愛を学べる御言葉だからだ。倫理的イメージを固定化させ絶対視すべきではない。善人の枠組みを固定化させ絶対視すべきではない。私が自分の良心に問うて最も取り払うべきは教条的な信仰観だ。先天時代の、あの厳しい取り決めの枠に抑え込んで自分の信仰を繋いできた私が、後天時代に入って解放されるべきは先ず教条的信仰観からの精神的自由であり解放だ。先天時代の信仰を堕ちず離れず死守してきた食口は、その土台の上に、宗教を超えた位置で後天時代を迎えるべきだ。もはや凝り固まった倫理的イメージに左右されず善人の枠組みを超えて真の愛を求めるべきだ。あれほどに放蕩三昧されてきた御子女様を御父様はどう受け入れられたのか、更に天国の門番の位置まで与えられた意味を問うべきだ。御父様は倫理的イメージに左右されてはいない。であれば私達は二世に対してどうあるべきか。少なくとも受け売りされた信仰観を押し付けて神の愛だ親の愛だと強要すべきではない。
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