2021年10月8日金曜日

今日の想い 1111

 お互い知らない者同士がマッチングされて結婚に至れば、感情からではなく先ず夫婦一体の形から入り、夫婦愛の本質は一体の形の中に見出していくことになる。相手が自分の好みではないとしてもそれを抑え性を立てて夫婦一体の形から入るのだが、感情に囚われての性の使い方ではなく、み旨への思考から性を使っている。それは血統を重要視する父母様と、そして子女である私の関係という子女の愛を立ててのことで、そこにはみ旨要求の意味はあるとしても、夫婦の関係である夫婦の愛を立てての行動ではないことを認識すべきだろう。遠回しではなくストレートに言うと、食口の女性は美しくないし愛の行為に重きを置いていない。敢えて言えば夫婦の愛を蔑ろにしている。祝福カップルは別れないことを当然のこととしているから、夫が妻に対して異性としてどう思っているかは妻は差ほど関心もない。かえって夫の性への欲求を罪とみて否定する妻が多かったりする。罪は行動そのものを言うのではなく方向性を間違えているから罪なのであって、妻の美への追及心のなさや淡泊な行為を何とも思わない方が、夫の男性としての存在を無視し夫婦の愛を蔑ろにしているという意味で罪ではないだろうか。離婚率の低さを誇るとしても、その理由として夫婦の愛が強く働いていてそうなのか、それとも離婚は罪だから仕方なくなのかよく見る必要がある。私とすれば食口である夫は信仰の理屈と妻の態度から男の性を去勢され、夫婦の愛を培い夫婦一体からの主体対象授受作用による創造的夫婦とはなりにくいと思っている。しかしだからといって離婚したほうがいいと提案するつもりは全くない。いつも考察する時に根底に置くべきは霊的な観点に立っているかだ。この世とはうらはらに性の解放を抑えられることでこの世の男性以上に性を考えるのでありその意味を問うのであり、夫婦愛の究極の形としての性への理想追及力を自ずと募らせる。その力は霊的な力であり愛の本質、真の愛を理解し求める力だ。今は視覚的であろうが五感的であろうが性は安売りされ簡単に手に入ってしまう。しかし簡単であればあるほど、その本質は逆に遠ざかる。

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