2021年10月20日水曜日

今日の想い 1115

 一通りその日の復興会講義を受けると、外は既に暮れていた。兄弟姉妹の明るい声が響く教会を後にして、途中で降り始めた冷たい雨に濡れながら、小汚い四畳半のねぐらに向かってトボトボ歩いた。孤独感が押し寄せて涙を流しながら、天の御父様と呼び続けてみた。そうすると御父様は私の身体に入られた。入られて思いっきり嗚咽された。天の御父様は私を通して涙され、私を包んで雨の涙も流された。これが私の聖霊体験だった。それ以来そんな体験は一度も無かったけれども、あの時この道こそが私の道だと確信した。その意味では私の入信動機に原理の真理は二の次だった。罪の認識もなかった私に罪を自覚する過程は献身してからであって、ただ生きることの意味も解らず怖く、死ぬことの意味も解らず怖い、やもすれば魂を分裂させる脅しの霊に憑依されて苛まされるだけの私だった。女性になどフォークダンス以外手に触れたこともなかった。罪からの救いを求めたわけではない。貧しい家で親は喰わせるだけで精いっぱいだった。食わせてもらったことが感謝だしそれが愛だといえば言えるのだろうか。その年代の親は多くがそんなものだった。しかし親の愛に包まれて育ったという感覚は薄いように思う。そんな親が私の苦しみを解決して安らぎを与えてくれるとは思わなかったからだ。親が初めて真摯に私に向き合ったのは教会に献身すると告げた時だった。親にしてみれば息子に捨てられ、教会に奪われた想いだったに違いない。その意味では私ならずとも食口は親に対して罪を犯している。私は信仰をもつことでもはや霊に苛まされることはなくなった。生きることの意味、死ぬことの意味もある程度理解して安らぎは勝ち取った。教会との出会い、祝福を戴いた御父母様との出会いは私を生まれ変わらせた。この事実は否定のしようがない。年老いた親は昔のことは何も言わないけれども、常におどおどしていた子供だったから私の変わりようには目を見張ったはずだ。今は親の面倒を見ながら、帰ってきた息子が傍らにいることで親は平安を取り戻している。私を受け入れることで親も兄弟も復帰されている。原理も真の父母も、教えたところで理解できるはずはないが、そんなことより真の父母によって生まれ変わったこの私を受け入れることで、御父母様を既に受け入れている。

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