主体相対の関係で、主体は相対にもなり相対は主体にもなる。三対象目的とはそれを言っているのであって、主体対象の関係は時と共に成長と共に変わっていくし、また変わるべきだ。神と私の関係性、親と子の関係性ももちろん変わっていくし、み言葉も河の流れが変わっていくように、み言葉の本質が変わらないためにも摂理の変化と共に、時と共に成長と共に光の当たり具合は変わっていかざるを得ない。教会との関係もそうだし、御父母様との関係も子として成長しているなら当然親子の関係性も変わってくるはずだ。良心が神にも勝るとなると、平面的に見れば人それぞれ良心を持っているのであって、そうなると方向性が異なり人類共通の神の願いを求めなくなると思う人も出てくるかもしれないが、神との関係を絶たないという根源を変えないためにもその関係性は変わっていくし、変わらざるを得ないと私自身は思う。私自身の関係性を見ても、過去には過去それぞれの時代に於ける関係性、それらを紡いだ今は今で過去のどんな時代とも異なる関係性を神との間にも、霊界や地上界にも、もちろん御父母様や教会との間にも持っている。それが生きているということだと私は思う。そして天地がひっくり返る明らかな違いは、良心との関係が他のすべての関係を対象にする主体的関係となったことだ。
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