昨日記したが、私は日本での路程に恨みすら覚える立場かもしれない。最初当時を思い出すだけで吐き気をもよおし、ことある毎に夢にも胸痛い状況が現れて鬱の状態で目が覚めていた。もし霊界で何度も同じ状況が繰り返されるのなら、生きて地獄死んでも地獄だろう。もし洗脳されていて気分も感情もコントロールされていたならどれほど楽だっただろう。しかし実際は反吐が出るほどの苦痛の数々だった。しかしそうなることも自分の意志だった。天国への道は地獄を通過するものだと知っていたからだ。昨日記した記憶も途中で途絶えているように、地獄の底に封印して記憶にも上らない多くの出来事がある。妻は歩みの全てをほぼ覚えていて事ある毎に不平を垂れるが、私はというと開放しているのは喜びの記憶であり平安の記憶だ。それ以外は私の魂からは削除されている。もし霊界に赴いて封印した忌み嫌う記憶の全てを開放するとなると、今の私の人格では処置できる位相や信仰的権威はなく、蕩減なのか霊的役事なのかを済ませる必要がある。それ故に未だ地上に生かされていると言ってもいいかもしれない。食口の中にも清平役事を集金摂理だと非難する者も多くいるが、私にすれば雑霊悪霊というか忌み嫌う記憶というか、 全てとは言わないが多くのコールタール化して漬け込んだ忌み嫌う記憶の数々を整理されて解放された。霊的な感覚を幾らかでも備えていれば清平の恩恵は理解できるはずだ。献金として供えるも役事として受け取るも、主体である本人次第であることは言うまでもない。後に訓母様や御家族がどうなったかどうかは、私の詮索範囲を超えていて探ること自体、供えた献金を俗物化することになり受けた恩恵に唾する行為だ。その態度は全ての中心者に対してもそうだし、御母様に対しても当然のことだ。
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