統一食口の本領発揮はまさにこれからだ。国から迫害されてこその信仰であり摂理の牽引者だ。今までの生温い教育期間を経て、この迫害の真っ只中で私達は光る存在になる。光を受けるのではなく光を放つ恒星になる。第四アダムとして一人一人が真の父母となるのであり、それこそが神様と御父母様の願いだ。昼に夜にアボジの食口を奮い立たせる怒号が胸に聞こえる。立て!立ち上がれと、、。おそらく多くの食口は病気かと思うほどの高鳴る胸の鼓動を最近覚えたに違いない。アボジはそうでもして天の心情に応えて欲しいという切なる想いを食口に届けたかったはずだ。天の願い(心情)と聞くと献金と伝道の数のノルマであるかのような教会の堕落体質は、図らずも国家権力によって打ちのめされる格好となってしまったが、食口達の精神復興と心情復帰が当面の摂理基台準備期間として与えられるべきだろう。日本食口は特に、日本人体質である依存根性を打破して、戴いた神様の霊を立てての自我の確立が要求される。自立性主体性あってこその摂理の進展だ。依存根性を悪用して搔き集めたものはものの見事に流れ去ってしまった。天文学的な通貨数値として流れ去ってしまった。その流れに恐れや依存の霊は乗っかっていたとしても、天の願いを立てる責任心情は供えられなかった。差し出したものに対して口出しはおろか血肉を分けて与える痛みも感情も覚えなかった。み言葉で武装すべき魂であるべきものを、恰も依存根性が喜びそうな御利益言葉に惑わされたまま喰いものにされ続けてきた。信仰とは名ばかりの御利益集団にいつしか堕落してしまった。認識もできない霊界や地獄の恐怖と、辿り着くこともない天国の高い位階を目の前にぶら下げられて、走り続けた結果を今の現実に見ている。総括して振り返ると失敗摂理の墓標だけが草も生えない荒れ地に立ち並んでいる。それぞれが正しく良心に向き合い、過去の歩みを総括してほしい。天国は心の中にあるとイエス様は言われたが、私達の心の中に本当に天国はあるだろうか。後天開闢時代だと言われながら、相変わらず恐れと依存と不安という地獄しか見いだせないのではないだろうか。霊的債務である蕩減が清算されたかどうかは良心が判断するのであり、御父母様でもないしましてや組織の長でもない。そしてこれからの摂理もどう歩むかも良心に尋ねながら歩む道だ。そう腑に落ちてこそ私たちは新たな出発ができる。日本人の誰よりも地獄の底で呻吟し続けた私達、だからこその統一食口の本領発揮はまさにこれからだ。
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