2022年11月2日水曜日

今日の想い 1202

 性の関わりのない生はあり得ないのであって、その意味では性こそが生の創造だろう。一方では生命の誕生を喜び生命の尊厳を謳いながら、しかし一方で性愛の卑猥さや不浄を引きずっている。実体復帰に蓋をして当たらず触らずなのも、性愛に潜む穢れの感情を誘発させたくないからで、教会ですらひたすら隠すべくひきずっている。アボジに穢れの感情があったのか、それとも聖なる復帰儀式として何の後ろめたさもなかったのかは、アボジに原罪があったのか罪のない独生子なのかが問われる重要な点だろう。もちろん今となっては聞くこともできないが、語られた中にこういうのもあって、裸の女性が布団の中に入ってきても生殖器が微動だにしないと言われた言葉は検証に値する。それが真実であれば性欲を動じ静ずることのできる主管力を持っておられたことになる。またこんな言葉も口にされている。アボジは情愛をもって女性を見ることはない、要するにアボジは異性を意識されることはないということだ。短めのスカートでアボジの前に現れた女性に対してある責任者が強く注意したときに、アボジは貴方がそういう目で見るからだと逆にたしなめられたという逸話にあるように、アボジの性に対する感性自体が堕落している人間とは根本的に異なるのかも知れない。しかし青春時代よ早く過ぎ去れと思って過ごされたということは、性に対する感性は同じだけれどもやはり主管力の方が群を抜いているということになるのだろうか。どれほど信仰を深めようが訓読しようがアボジの境地には到達できないとしても、アボジの神様を想う心情が自己主管力を強め、自己主管力が心情をより深めた本然のアダムの魂の在り方をアボジは地上で見せてくださった。

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