2022年12月30日金曜日

今日の想い 1216

 教会の中に愛はない。正しく言えば地上的で横的な愛はない。食口と言いながらも兄弟間の深い関係などない。御父母様との関係性もそうであり親と言いながらも親ではない。地上の親ほどの心配は私達に対して何もしてはいない。しかし地上で通じる愛が存在するように、霊的に通じる愛がある。霊的愛は地上で言うところの愛とは次元が異なる。地上では敢えて愛とは真反対の仕打ちを受ける。奪われ、騙され、酷使され、打たれる路程を生きる。愛とは真反対のそういう環境に沈められ溺れないよう必死でもがきながら、愛とは何かを問い尋ね、地上とは異なる霊的永遠な愛を受け取る感性を育てていく。どんなに説明しようとも誰にも理解されない。それは教会内ですら理解されていない。多くの食口はこの世では受けることが出来なかった愛をあの世で受けられると思っている。地上の愛とは次元の異なる霊的愛の意味が解っていない。地上の愛は霊的愛の象徴的なものでしかない。霊界は愛を呼吸する世界だが、地上で愛と認識されて受けるもの全てを否定され、あらゆる困難によって魂に芽吹く生きる感性こそが霊的呼吸器官であり、霊的愛を認識できる。過去のアボジに訓練されてきた歩みを思い返してみればいい。食口は知識として愛の意味を理解してはいないけれども、生涯を通してアボジと共に歩んできたのなら、霊的愛によって生きる感性のいくらかは魂に沁みついている。そしてその真の愛の感性こそが新たな世界、新たな時代を創造する力になる。霊的愛への道筋を示してくださったアボジを証するのは食口以外ない。この世の人が持っていない真の愛の感性を持っている、そのことが誇りであり力だ。私達に愛はないけれども、霊的愛、真の愛を受け取る感性が備わっている。

2022年12月20日火曜日

今日の想い 1215

 霊肉堕落の決定的要因として、カインはアベルを支えることができないどころかアベルを殺害してしまった。殺戮とあるからカインもアベルも一個人の話ではないとは思っているが、とにかくその事件以来、復帰の摂理は一貫してカインとアベルの闘争歴史、裏を返せば闘争を超えての一体化の摂理として展開されてきた。闘争は闘争自体に目的があるのではなく、分裂にあるものを一方の旗色に染めて従えるのであり、力による一体化が闘争の目的だ。人が組して大小の集まりを形成するが、その形態を維持するためにはアベル的位置へカイン的位置が従うことによって維持される。教会も同じようにアボジから降ろされるアベル的位置に対してカイン的位置の食口が従うという形態がとられている。献金に関して言えば捧げる側と使う側に分かれるが、御生存中はアボジの指示と許可で使われ、捧げれば捧げた後の使い方に口を出さないのはその通りだった。しかし果たしてそれが良かったのかは疑問符がつき、ましてや御逝去されても同じように中心からくる献金要望に応え、使う側の責任を問わないのはどういうことだろう。使う側の責任が問われないのなら、逆に捧げる側の責任を問う必要がある。出せば帰ってこない限り何某かの使われ方をする訳だが、出さない限り何に使われるかの問題はないからだ。アボジはこういう問題が起こることも予知されていて、それ故の良心宣言でもあったと思われる。後天時代は益々個々の良心による采配が大きくなって、そうなるとカイン的位置にある者達の組織への従順度は、良心のフィルターを通すが故にどうしても低くなる。世界を席巻する企業体もそうだろうし、国家自体もその影響を受けることになる。そうなると世界は先ず瓦解する方向に向かわざるを得ない。アベルカインの闘争と一体化という世界観を超えた、後天時代の世界観とは一体どのようなものだろうか。今までの組織形態は崩れても、良心作用に適する新たな組織形態が構築されていくはずだが、経済の血流である通貨制度も含めて未だに見えてはこない。

2022年12月19日月曜日

今日の想い 1214

ブログ村を見れば、子女様の様々な問題を見て彼等は堕落したという結論を出し、御家庭の分裂を見て真の家庭とはなっていないと結論を出すいくつかのブログを見る。原理観をどこまで深めるかによって堕落の意味合いは異なってくるのだが、そういうブログ主に共通するのは原理観が極めて浅く、実体の関係すなわち肉体の次元でしか結果を見出していないということ。彼等の論理によればタマルもマリアも不倫となり、タマルによって残された血統は不倫による堕落の血統でイエス様も不倫の子であって神の独り子とはならない。間違いを犯せば堕落だと言うなら犯す以前は神の血統圏であり犯したら堕落の血統圏に落ちるということだ。しかしアボジが間違いを犯したであろう子女様を、堕落の血統に落ちたと公的に話された言葉はまったく見当たらない。不倫や婚前交渉の良し悪しを言っているのではなく、堕落と復帰をどう捉えるかの話なのだが、堕落と復帰も含めてみ言葉は霊的意味合いとして捉えるべきであり、戒めとしての言葉と取ると信仰は教条主義となりみ言葉は裁きの言葉でしかなくなる。二世問題も子供を戒めとしての囲いに閉じ込めてしまうと、教会や親やみ言葉に対して極度な反発心を抱くか自主性や主体性を封じ込めてしまって自立精神を欠いてしまいがちになる。子女様方がそうであるように、環境が環境なのだから紆余曲折はあって、一世がイメージしているような清廉潔白な俗にいう正道を歩めるのは稀だと捉えるしかない。親はどうすることもできないその子としての宿命を背負って生まれている以上、起こる事柄も成るべくしてそうなったのだと覚悟し、親としての使命は責めるのではなく現実も含めてどう愛するかに尽きる。血統の重要性は生命の尊厳からであり、生命の尊厳は惜しみない愛の投入によっている。心情という言葉を自分のものにしようとすれば、表象的現実やどうしたどうなったの結果に感情を振り回されるのではなく、惜しみない愛の投入によらなければ心情圏には辿り着かない。ある意味堕落的で出来の悪い子であればあるほど、親子はより深い心情圏に入るという、すなわち神様により近くなるというここでも霊肉の逆説が成り立つ。日本中から総批判されて打たれたのだから、せめて天の心情圏に入れるより深い原理観を供えるべきだ。打たれる今を凌げば大きな天運が訪れるなどと暢気に構える気が知れない。心情を捉えなかったら天の摂理と何も関係がない。

2022年12月11日日曜日

今日の想い 1213

 被害者救済法案が可決した。反教会派の要望は教会解散であり、そこに向かうにはまだハードルがいくつもあるが、取り敢えず一里塚を超えたというところだろう。教会は今回のことで教会活動がいくらか制限されることになるのだろうが、それよりも何よりも植え付けられた世間の教会への反社団体としての悪のイメージがあまりにも大きく、活動や献金どころではなく、食口の信仰そのものに多大な傷を残しかねない。表面的には信仰を失うか、失わないまでも距離を益々おいて離れていくだろう。私個人としては、ここまで貶められるなら教会自ら潔く解散して、新たに摂理意志のある者が賛同する食口を集め小団体を作るなりして摂理を進めればいい。教会が既に摂理とは大きく乖離していたことは自明であり、献金という手段が目的化して久しい。問題は教会自体に自浄作用がなく、今回のような外的圧力によらなければ変われないという情けない状態をどうすることもできなかったことだ。組織の腐敗はカトリックも含めた宗教組織のみならず、大きくなればなるにしたがって必然的と言えるほど内包しており、アボジはそれを見通しておられたはずだ。本来、家庭連合も教会から名前を変えるだけの願いではなく、ピラミッド教会組織を解体し祝福家庭の連合組織として平準化したかったはずだ。家庭教会も環故郷も、打ち出されはしてもその願い通りにはならなかった現実から、家庭連合を打ち出されて流れを摂理に寄与する方向へと向かわせたかったのだと思う。インターネットが発達して情報発信がマスメディア独占から全人類に平準化していくように、今の主要摂理が何かの判断も、それに応える手段も方法も、教会のみに降ろしていた神意を各祝福家庭、更に個々の良心に降ろすという平準化がアボジの願いだった。内部でそれができずに外圧の力が働いたことはハードランディングで痛みは外的なことのみに収まらないが、それでも摂理の方向性としては間違ってはいなかったというのが、私の摂理観だ。

2022年12月6日火曜日

今日の想い 1212

 親の脛をしっかりかじってきて、それなりの子としての活動する風を装いながら、結局実を残す何の成長もせぬまま今にいたった。ある程度成長して独り立ちすれば逆に親の面倒を見て当然だろう。それどころかいくつになっても親の脛をかじり続ける。そんな子供を世間では何といって戒めるか。いつまでも甘えるんじゃないと早々に送金は絶つはずだ。腐りきった子供ならそれでも甘え続けるだろうし、そんな子供が自立する時がどういう時かというと、かじる親の脛がなくなった時、すなわち親が死んだ時か全く動けなくなった時、初めて自立する覚悟をせざるを得ない。母の国として日本食口がやってきたことは、夫にも子供に対してもそんなことだ。そして今日本食口は活動どころか信仰を維持するのさえ困難なほど息の根を止められつつある。今こそ本部教会や長男である米国教会を始めとする側からの援助が必要な時なのに、援助がなければ息の根を止められかねないのに、聞こえてくるのは、活動や維持のための資金が出なくなったから自前で何とかしなければならない、という己のことだけで、精魂尽き果てた母への慰労の言葉すら発しない。こんな組織がどうして親の愛だ四対象の愛だと口にすることができるだろうか。言った先から讒訴され身体も霊人体も腐っていく。甘えてかじり続ける方も方なら何の口出しもせず出し続ける方も問題ありすぎだ。教会はいつから摂理も愛もみ言葉も履き違えてしまったのだろうか。元二世信者に問題がある?当然問題もあるだろう。問題ある者を使って悪鬼は鉄槌を振り下ろすけれども、讒訴条件がなければ打たれる筋合いはない。

今日の想い 1211

 世界は経済覇権を誰が持つかで回っている。経済とは物の流れであり、万物主管権を持った国や組織が人類社会を動かせる。イギリスのトラス首相が三日天下ならず三月天下で野に下ったのは、既に通貨価値の低下でインフレ指向が止まらないのに、更なる通貨価値低下を引き起こす減税政策をぶち上げてしまったからだ。今や金融は世界金融であるのに、英国内事情だけを見て政策を立てても、国債市場や金融マーケットに売買で喰いこんでいるファンドや他国中央銀行、投資銀行が黙ってはいない。保持している英国債を大量売りし、持っていなくても先物売りで裁いてしまうと英国債価値はどこまでも落ち続ける。C国についても一党独裁を続けるためには、一にも二にも経済だ。*安*事件から経済政策として改革開放路線で人件費安での供給基地となりGDPの二桁成長で潤わせ民を納得させてきた。しかし先の先富思想によって低階層への富の降下を期待したが、貧富格差が年々極端になって政権の不安材となっている。今の政権政策は先富思想から共同富裕を目指し低成長路線をとってはいるが、特定の地域住民だけが富を占有する状態が急に無くなるわけではない。反コロナブロック運動も底に物の流れである経済が滞っているという大きな問題への反感がある。広がったデモを抑えきることができなければ政権はどうするか。人民の意識を外に向ける以外ないだろう。国内問題を国家間問題に挿げ替える常は歴史を見れば明らかだ。そこで懸案されるのが台中問題であり、火の粉を被らざるを得ない日本への影響だろう。教会問題で左派連中を釘付けしている間に紛争準備をしているのかどうなのか。何もしてなかったら日本は中枢も含めて完全に平和ボケであり安保条約が阿保条約となる。日本分割が摂理とならないようにするにはどうすべきだろうか。

2022年12月1日木曜日

今日の想い 1210

 GAFAを見ればわかるように、技術やシステムがこれだけ進歩していて、IT企業のトップの話や社員のミーティングを垣間見るだけでも、私達がやっていることと随分乖離していると思わされる。ビジネス用語も日に日に多様化しているし、私では意味の分からないミーティングの遣り取りも多い。ビジネスを手掛けてきた私からみても一世代も二世代も遅れを取っているようで、時代の先取りどころか万物復帰に毛の生えた時代錯誤的物品販売のまま止まっている。レストラン事業に30年以上関わってきたが、店を構えた万物復帰から抜け出せず、どれだけ手足を動かしたか、どれだけ頭を下げたかという浪花節世界のままだ。発展も進歩もせずに、もちろん売り上げも上がらずに、手足を動かし頭を下げ続けていれば摂理の一端を担っている気分で満足している。ことある毎にミーティングは持たれるけれども、上意下達で中心者がそれなりの話をして、それを聞いて受け取るだけなのに何か創造的な歩みができる気分になって満足している。ミーティングで意見を戦わすというような場面を未だかつて見たことがない。今回の反教会運動は悪いことばかりではない。ビジネスでスクラップアンドビルドが必要であるように、今の教会体制を修正して維持するよりは、いったんスクラップして摂理に沿う形で新体制をビルドすればいい。アベルが正しいというアベル権威を、アボジのみ言葉にあるように各祝福家庭に移譲すればいい。それでこそ後天時代に正しく向き合えるし、個人家庭の金銭感覚(万物感覚)も、ビジネス団体も含めて様々な摂理団体の経営感覚も変わっていくはずだ。アベルの言葉一辺倒のアベル権威のままで創造的思考が回転し始めるとは思えない。歴史を見ればすべての地上的進歩発展はカインの知恵からだった。そのことからも明らかだ。