被害者救済法案が可決した。反教会派の要望は教会解散であり、そこに向かうにはまだハードルがいくつもあるが、取り敢えず一里塚を超えたというところだろう。教会は今回のことで教会活動がいくらか制限されることになるのだろうが、それよりも何よりも植え付けられた世間の教会への反社団体としての悪のイメージがあまりにも大きく、活動や献金どころではなく、食口の信仰そのものに多大な傷を残しかねない。表面的には信仰を失うか、失わないまでも距離を益々おいて離れていくだろう。私個人としては、ここまで貶められるなら教会自ら潔く解散して、新たに摂理意志のある者が賛同する食口を集め小団体を作るなりして摂理を進めればいい。教会が既に摂理とは大きく乖離していたことは自明であり、献金という手段が目的化して久しい。問題は教会自体に自浄作用がなく、今回のような外的圧力によらなければ変われないという情けない状態をどうすることもできなかったことだ。組織の腐敗はカトリックも含めた宗教組織のみならず、大きくなればなるにしたがって必然的と言えるほど内包しており、アボジはそれを見通しておられたはずだ。本来、家庭連合も教会から名前を変えるだけの願いではなく、ピラミッド教会組織を解体し祝福家庭の連合組織として平準化したかったはずだ。家庭教会も環故郷も、打ち出されはしてもその願い通りにはならなかった現実から、家庭連合を打ち出されて流れを摂理に寄与する方向へと向かわせたかったのだと思う。インターネットが発達して情報発信がマスメディア独占から全人類に平準化していくように、今の主要摂理が何かの判断も、それに応える手段も方法も、教会のみに降ろしていた神意を各祝福家庭、更に個々の良心に降ろすという平準化がアボジの願いだった。内部でそれができずに外圧の力が働いたことはハードランディングで痛みは外的なことのみに収まらないが、それでも摂理の方向性としては間違ってはいなかったというのが、私の摂理観だ。
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