2022年12月19日月曜日

今日の想い 1214

ブログ村を見れば、子女様の様々な問題を見て彼等は堕落したという結論を出し、御家庭の分裂を見て真の家庭とはなっていないと結論を出すいくつかのブログを見る。原理観をどこまで深めるかによって堕落の意味合いは異なってくるのだが、そういうブログ主に共通するのは原理観が極めて浅く、実体の関係すなわち肉体の次元でしか結果を見出していないということ。彼等の論理によればタマルもマリアも不倫となり、タマルによって残された血統は不倫による堕落の血統でイエス様も不倫の子であって神の独り子とはならない。間違いを犯せば堕落だと言うなら犯す以前は神の血統圏であり犯したら堕落の血統圏に落ちるということだ。しかしアボジが間違いを犯したであろう子女様を、堕落の血統に落ちたと公的に話された言葉はまったく見当たらない。不倫や婚前交渉の良し悪しを言っているのではなく、堕落と復帰をどう捉えるかの話なのだが、堕落と復帰も含めてみ言葉は霊的意味合いとして捉えるべきであり、戒めとしての言葉と取ると信仰は教条主義となりみ言葉は裁きの言葉でしかなくなる。二世問題も子供を戒めとしての囲いに閉じ込めてしまうと、教会や親やみ言葉に対して極度な反発心を抱くか自主性や主体性を封じ込めてしまって自立精神を欠いてしまいがちになる。子女様方がそうであるように、環境が環境なのだから紆余曲折はあって、一世がイメージしているような清廉潔白な俗にいう正道を歩めるのは稀だと捉えるしかない。親はどうすることもできないその子としての宿命を背負って生まれている以上、起こる事柄も成るべくしてそうなったのだと覚悟し、親としての使命は責めるのではなく現実も含めてどう愛するかに尽きる。血統の重要性は生命の尊厳からであり、生命の尊厳は惜しみない愛の投入によっている。心情という言葉を自分のものにしようとすれば、表象的現実やどうしたどうなったの結果に感情を振り回されるのではなく、惜しみない愛の投入によらなければ心情圏には辿り着かない。ある意味堕落的で出来の悪い子であればあるほど、親子はより深い心情圏に入るという、すなわち神様により近くなるというここでも霊肉の逆説が成り立つ。日本中から総批判されて打たれたのだから、せめて天の心情圏に入れるより深い原理観を供えるべきだ。打たれる今を凌げば大きな天運が訪れるなどと暢気に構える気が知れない。心情を捉えなかったら天の摂理と何も関係がない。

0 件のコメント: