教会の中に愛はない。正しく言えば地上的で横的な愛はない。食口と言いながらも兄弟間の深い関係などない。御父母様との関係性もそうであり親と言いながらも親ではない。地上の親ほどの心配は私達に対して何もしてはいない。しかし地上で通じる愛が存在するように、霊的に通じる愛がある。霊的愛は地上で言うところの愛とは次元が異なる。地上では敢えて愛とは真反対の仕打ちを受ける。奪われ、騙され、酷使され、打たれる路程を生きる。愛とは真反対のそういう環境に沈められ溺れないよう必死でもがきながら、愛とは何かを問い尋ね、地上とは異なる霊的永遠な愛を受け取る感性を育てていく。どんなに説明しようとも誰にも理解されない。それは教会内ですら理解されていない。多くの食口はこの世では受けることが出来なかった愛をあの世で受けられると思っている。地上の愛とは次元の異なる霊的愛の意味が解っていない。地上の愛は霊的愛の象徴的なものでしかない。霊界は愛を呼吸する世界だが、地上で愛と認識されて受けるもの全てを否定され、あらゆる困難によって魂に芽吹く生きる感性こそが霊的呼吸器官であり、霊的愛を認識できる。過去のアボジに訓練されてきた歩みを思い返してみればいい。食口は知識として愛の意味を理解してはいないけれども、生涯を通してアボジと共に歩んできたのなら、霊的愛によって生きる感性のいくらかは魂に沁みついている。そしてその真の愛の感性こそが新たな世界、新たな時代を創造する力になる。霊的愛への道筋を示してくださったアボジを証するのは食口以外ない。この世の人が持っていない真の愛の感性を持っている、そのことが誇りであり力だ。私達に愛はないけれども、霊的愛、真の愛を受け取る感性が備わっている。
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