アボジは真に夜の神様の出自として地上生を送られた。出自が夜の神様だからこそ祝福(血統転換)の儀式を堕落世界や罪の人類に提示されることができたし、絶対性の概念も天に通じる中心位置にある祝福家庭に示された。性を地上的な立場でどうこう言うことはできるが、あくまで地上という堕落世界に限った話であり、その内的霊的な意味、さらに神霊的な意味を提示するのは地上人である以上は先ず無理だ。これまで地上人は堕落の中心的問題である性を言葉にすることも憚られたし、触れれば人間としての品性を疑われるほどで、汚物桶に押し込んだまま今日まできた。愛の表現として性を持ち出す人もいるけれども、どうも言い訳がましく聞こえるし性が愛の表現に留まらないのも性の実態だ。愛があろうがなかろうが性の衝動は発動するからだ。祝福一世の性はアボジによって相対を戴いたという一点で体を重ねる。天の血統に繋がるという動機から体を重ねて一つになるのであって、そこから愛を芽生えさせ育んでいく。性が先で愛が後だ。人間は位相が一様ではなく異なっていて、それ故に性の在り様も異なっていると見る。例外を許さない一夫一婦制が創造本然の願いかどうかも私自身は疑っている。世界的になったキリスト教が一夫一婦制だから先ずそれに合わせる為にそうなっただけで、実際いろんな形の家庭の在り方を取っている宗教も民族もあるし、他の宗教を否定しないのであれば家庭の在り方も否定されはしないと思うのだがどうだろうか。たとえ一夫一婦制が創造本然の願いだとしても、摂理を進める上で原理原則の縛りを最優先する必要はないし、それを優先して節理が進むとは思えない。渋沢栄一は日本の経済の土台を築くべく多くの会社や団体を立ち上げた。一方で妾が数十人もいたとかというマイナス面の話も耳にするが、異性を愛し好む意欲が旺盛でモノにしてきたからこそ社会的貢献も大きかったと私は思っている。アボジが褒め称えていた徳川家康とその血筋も、大奥で女性を何人も抱えていた。立志列伝に名が乗る有名どころに、生涯愛した女性は一人だったというのはおそらく片手で数えるほどだろう。どうしても社会では倫理的道徳的な測りで見、教会では教条的な測りで見て人格を問うが、アボジは(人格者と言われる人も含めて)「誰一人として天国へ行ける人はいない」、すなわち誰も罪を問われない人はいないとなると、アボジが言われるように「いかに正しい歩みをするかではなく、いかに天国建設に貢献する歩みをしたか」を問われるのではないだろうか。私が今までの宗教的感覚と異なる突拍子もない方向に向かっていると思われるかも知れない。しかし一つの摂理的時代が終わり、新しい時代圏で新しい人生観価値観となると、善と思われたものが悪となり、悪と思われたものが善となるのも当然だと思う。少なくともアボジとは異なる、それこそ突拍子もない御母様の独生女の話を信じるならば、先天の全ての観、信仰観を始め人生観価値観善悪観家庭観全てを否定しなければ受け入れられないだろう。今御母様に従っている者達であっても、御母様のお話を信じている人は誰もいない。ただ頷いているだけでそれは信仰ではない。
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