教会は苦労の百科事典だと話されたが、苦労でもって愛を開拓する、愛の百科事典だと言えばアボジは二つ返事で納得されるはずだ。昨日4年ぶりだという同窓会に参加してきた。私自身、4年どころか一度たりとも参加してないので彼是同級生に会うのは50年ぶりとなる。帰国を知っている同級生の従弟叔父から誘いの連絡があって、数か月先の話だからと軽く了解を入れておいたのだが、いざ明日の事柄となると尻込み始めた。行ったら行ったで体形のことから始まって教会のことを含めいろいろ言われることはわかっている。責め苦の嵐に揉まれているその場のイメージしか湧いてこなかった。そうは言っても行かなけば行かないで詮索されたり触れられたくない話題で盛り上がるだろうなと思い数時間の我慢と決め込んで参加してきた。前口上が長すぎたが、結論を言えばさして目立つこともなく穏便に時は流れた。私の自意識過剰だったようだ。肩透かしを覚えながら、しかしそれなりに挨拶するに一人一人の印象がどうも薄すぎる。本当に彼等と十代の時間を共に過ごしたのだろうかと訝り通しだった。確かに表ではそれなりに付き合ってはいたが、基本引きこもりで一人で過ごしたいタイプだったことを思い出し、そういうことかと納得した。人とのコミュニケーションは傷つけたり傷ついたりの苦労は付きものだろう。それを面倒臭がり距離を置いてきたのであれば愛の何たるかも知ることもない。参加はしたもののさして誰と会話を交わすこともなく、手持無沙汰で食事に専念している私の席に、敢えて足を運んで昔の思い出話をして懐かしがったり、会えたことを素直に言葉に出して喜んでくれる同級生も一人二人はいて、ああこの人達は愛の何たるかを学んできたんだと、私の長い信仰生活の結実を逆に問われているようで心苦しかった。
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