親戚も知り合いも、勿論よく知る食口も、一人また一人と地上を去ってゆく。そんな報せを耳にしながら、私はというと、今日もまた受け入れられぬ置かれた状況と取っ組み合い、信仰から認識に至らないみ言葉の数々を頭の中で延々と巡らし繰り返している。渇きを癒そうと求める自分に従うことは良心に従うことではない。しかし戒めに囚われ続けるのが良心の願いでもない。そんなことで紋々としている自分を憂い悩む別の自分もいて、愛となんの関係ありやと一蹴する。肉体の次元であってもいつ癒されるともいえない渇きを覚えながら、潤いの尊さや地上の潤いを超える霊性の潤いを手にできる、と無理にでも信じる。朧げなその期待と意志が今の私を生かしていると言えなくもない。おそらくそんな話を食口にすれば口を閉ざされて引かれてしまうだろうが、私にすれば信仰人生を歩む中で唯一と言ってもいい摂理的課題だ。地上を去ってゆく食口は、それぞれの摂理的課題に向き合い、答えを紡ぎ出して神様への贈り物としたのだろうか。だから多くの家族や食口に見守られながら天に召されたのだろうか。今私が事尽きても、親戚が数人、おそらくそれも世間体を考慮して参加してくれるのみだろう。恥ずかしくもネットに残していく揺れ動く心の在り様は、誰一人見ることもなく、それでも地上に生きた小さな魂の証としての一葉の枯葉でしかない。
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