復帰摂理時代の統一王国時代、サウル、ダビデの基台の上でソロモンは神殿建設を成し遂げた。モーセの幕屋が象徴的メシヤであり神殿は形象的メシヤ、そしてイエス様という実体のメシヤを迎えたわけだが、復帰摂理からすれば再臨のメシヤを迎えたにも関わらず摂理時代を遡って神殿を建設する摂理的目的とは一体なんだろうか。今、この後天開闢時代にどうして神殿建設なのだろうか。日本食口に生活の犠牲を強いて、食口は誇りも希望も見失って、その証拠にメディアや被害者弁連の教会叩きに対してあちこちから声を上げる食口が出てきても良さそうなものなのに、ほんの片手で数える二世くらいしか声らしい声を上げる様子もない。このご時世にあっても打たれる時は打たれるべきとして頭を垂れているのだろうか。教会の摂理に対する姿勢も理解できなければ、声も出さず黙々と従っている日本食口達の行動は更に不可解だ。解散命令が出されようが出されまいが、既に教会は終わっている。社会の突き上げから二世達を守りもせず戦いもせずに逃げてしまった一世や責任者達が、どうして今更食口を先導し摂理に馳せ参じる声を上げることができるだろうか。教会や本部に背を向けるのは許せるとしても、二世達を蔑ろにし子女への心情責任から逃れるのは真の愛とは言えないだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿