日本は今年も8月6日と9日の原爆の日から終戦記念日を迎えた。通年は、日本の最後の熱を奪われたその日を超えると一気に涼しくなるものだが、どういう訳か今年は、超えて更に熱い日々が続いている。私は日本人に、とりわけ日本食口に対して熱くなれと天から発破をかけられているようで落ち着かない。毎年此の頃になると開戦に至った原因を問うたり、終戦なのか敗戦なのかを問うたり、戦争をなくすためにどうしたらいいのか、等の議論が放映されるが、ただの知識のヒケラカシであったり答えを出さない議論で満足していて、本質に訴えかけるものとは程遠い。私の想いははっきりしている。あの敗戦(終戦でなく敗戦)で日本人はそれまでの全てを失った。それは本土攻撃で多くの日本人も抹殺されたしインフラも失ったし政治経済や社会システムも否定されて失ったのみならず、最も奪われ失ったものが日本人としての精神性だった。日本語を使いながら培ってきた精神をあの敗戦で抹殺された。しかし私は多くの文化論者、民俗学者、歴史論者、それが右だろうが左に傾いていようが、敗戦以前の精神復古を声にする者だろうが、彼等と全く異なるのは、神の摂理はかつての日本精神を悉く否定されたという事実だ。私達祝福家庭が真の父母を通して天から与えられた新しい霊は、かつての日本精神を超える、それはキリスト教の精神をも超える新しい霊を戴いたという事実だ。日本食口は日本語を使っているけれども、それは取り敢えずの方便であって日本語に流れていた精神性を学びはしても精神として受けるべきではない。アボジは韓国語を学ぶように口を酸っぱくするほど語られていた。その後に英語を学ぶように、そして日本語も学ぶように話された。韓国語は学ぶという言い方はされているが、受け取るもの、すなわち韓国語の精神性を受けなさいということだ。私ももちろん日本で生まれ日本語で育ったわけで日本の精神性の残骸は沁みついているが、アメリカで英語を使い、韓国人も多くいたので韓国語で彼等に接っして最も感じるのは、和をもって尊しに代表される日本精神ではあるけれども、日本語に主語の曖昧さがあるように日本人の中に自我や主体性は立ちにくい。しかしそれが立たなければ彼等の中で生活し生きていくのは難しい。主体的に立つということが、日本精神の残骸の中では排除されるが、アメリカは周りに合わせるのではなく自分が自分の自我を立てなければ生きていけない。それはアメリカに留まらず普通のことだけれども、日本では普通ではない。敗戦は摂理であり、今更に日本精神を伝統や文化、歴史を紐解いて復古しようとしてもそれは神に逆らうことになる。確かに敗戦国であり、アメリカから内外の多くを持ってきて宛がってはいるけれども、キリスト教精神の根本である主の霊を受けることはなかった。アメリカは全てを与え教えたようで実のところ主の霊を与えてはいない。だから日本の堕落性ともいえる村八分の同調圧力という亡霊に未だに苛まされているし、言葉ではそれらしいことを言っても日本は自主性の欠落した、国の体を為しておらず何処かにオンブされた属国だ。日本人に霊の柱が立ち精神性を備えることができるのは実のところ祝福家庭の日本食口でしかない。しかし日本食口がその価値を理解していないことが大問題であって、その理解がそれなりにあるのなら、今回の一連の問題に対しても、そして本部や御母様に対しても、玉を抜かれたような、思考も感情も停止したような態度や行動を取るはずがない。35度越えの暑い日々が続いているが、天の霊を戴いた神性人間は通常平熱を超えた熱い血潮を滾らせる神人類になる。
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