2024年6月16日日曜日

今日の想い 1298

アボジがメシヤとして人類に霊肉の救いを完成したのかどうか。先ずその問いを立てることができる食口がどれほどいるだろうか。おそらくは食口のほぼ全てが、世界人類が悉く御父母様を真の父母と認める時、というような実に曖昧な認識を持っていた。それは私自身もそうで、アボジ生存中にそれなりの地上天国の形が現れるものと信じていたからでもある。摂理最終局面でD-DAYなる驚天動地の出来事が起こり、人類の誰もが御父母様に救いを求めざるをえない状況になるとわくわくしていた。しかし現実はというと、アボジはD-DAYの前に地上を去ってしまわれたし、D-DAYの日付が来ても特別な目に見える霊的役事も起こらなかった。私も含めて殆どの食口、特に一世達は理解し認識していた全てのみ言葉に対して、再度問い直さざるを得ないという再スタートを要求されたことになる。しかし地上の論理はどこまでも思考だけのことであり、知的論理に頼るだけではみ言葉の本質は受け取ることができない。それでも人が認識するとは思考に依らない感覚的認識もあれば、それこそ知情意を超えた何らかの霊的認識もある。人は霊的という言葉の意味を知らないだけで人それぞれに霊的認識を持っていて当然だ。唯物論者でも共産主義者であっても霊的認識は持っている。それは私達は霊から生まれた存在であり、よって霊的存在だからだ。人間と一括りにするけれども誰一人同じ顔はなく唯一の存在であるように、人生もそれぞれだし霊的認識も一人一人異なって当然だろう。同じ原理であってもみ言葉であっても、その理解や認識すら異なっている。同じように霊肉の救いの認識すら異なっている。他を見て同じ測りを宛がい合わせることに意味はない。私には私のみ言葉認識があり、救いの認識があり、それは私の良心(神)が立てるものに他ならない。画一化体質を持った日本人が蕩減を超えた位置で新たに目覚めるべき個の意志があり、それは封印されていた良心の扉を開くことに他ならない。

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