2024年6月17日月曜日

今日の想い 1300

 善は悪に対して言う言葉であり、逆もまたそうだ。相反する思想感情意志があるから一方を善の立場とすれば相反する一方は悪の立場だ。善なる御国というけれども、善の方向性を維持している神の国という言い方ならできるが、悪のない絶対善の社会などあり得るはずがない。アベルはより善の立場でありカインはより悪の立場であって、善の立場であっても当然悪を内包しているし、その逆も勿論言える。摂理がどれほど進もうともより善の立場のアベルは存在しより悪の立場のカインも存在する。善の立場は悪の立場に対しての善であって、悪の立場のない善の立場などあり得ない。悪のない善という言葉自体がそもそも矛盾している。人類は確かに堕落した。もし人類始祖アダムエバが堕落せずにいたら、未来永劫堕落とは無関係だっただろうか。悪という言葉は存在しなかっただろうか。善が悪にたいして言う言葉であるなら、悪のない善という言葉は全く意味をなさない。その意味では最初に躓き堕落しなかったとしても何某かの別の堕落事件は起こっただろう。人類歴史が螺旋状に発展するなら、最初に善と悪の間を振り子のように行ったり来たりしながら、そしてそれが回転運動になり、そして螺旋状の発展様相になる、その段階を踏むはずだ。善と悪との交互作用を授受作用といえるかどうかは別にしても、アベルカイン関係の授受作用で精神的に発展してきたことは確かだ。教会食口の原理的理解からみた現実社会は確かに堕落している。しかし社会も人々もその堕落様相に位置を取りながら復帰への憧れを見出している過程であって、そのまま堕落の位置に留まり続ける訳ではない。食口も救いを戴いた立場で、そのまま善の位置に留まり続ける訳ではない。いや善と認識していた自分の位置が、時を経るごとに気付いてみると第二の堕落の位置になりうる可能性もある。私に言わせるなら、教条主義に陥っている時点で第二の堕落の位置にある。戒めを護ることに汲々としながら、内的覚悟を要する新たな世界に飛び込もうともしない。人類が堕落したというなら実は昼の神様も堕落と関係している。しかし堕落圏を超えた夜の神様はあってあるものとして存在している。すなわち善の位置にも立たず悪の位置にも立たない善と悪の振り子自体を動脈と静脈の流れのように内包する、昼の神様を超えた存在を、アボジは蕩減を超えた位相に立たれて私達に指し示された。

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