2024年11月27日水曜日

今日の想い 1346

 日本に帰国してはや5年が経つ。生活の変化としてアメリカでは殆ど見なかったテレビ放送だが日本では見る機会が多い。世話してる親が見るに合わせても見るし、妻もクイズ番組が好きで一緒によく見ている。日本はクイズ番組が実に多い。見ると東大や有名大まで出ながら参加しているタレントも多い。IT時代であって、スマホでもパソコンからでもいくらでも知識は得られるだろうに、それでも未だに頭に叩き込む知識偏重が日本社会だ。知識で有名大に入れ、知識で大手に入れ、その為に教育も知識偏重だ。中高6年間英語を学び、覚えるイディオムや単語数は英語圏に引けを取らないが、しかしそれでも英語はしゃべれない。日本の英語教育は知識のための、すなわちテストやクイズの為の教育であってコミュニケーション教育ではない。妻のことを話せば怒られるが、英語会話ができないからといってアメリカに居ながら英会話の本を勉強し、英会話教材を手に入れて学んでいた。話そうとすればいくらでも話せる環境なのにおかしいだろうと説明しても固い頭は納得しなかった。英語の会話であろうと韓国語の会話であろうと、会話は所詮会話しながら身に付けるものだ。日本での英語の成績など関係なく話せば話すほど上達する。日本の教会の信仰教育にも同じ問題があって、訓読時間を決めて訓読するのはまだしも、み言葉の写経までするのは日本の机上教育に大きく影響を受けている。もちろんみ言葉を知識量として叩き込んでもみ言葉の本質は受け取れないけれども、机に座って学習の恰好だけ取ってもみ言葉を学んだ気持ちになるだけだ。1頁を写経している間に1巻くらいは目を通せるし、み言葉の全体と流れを先ず捉えることの方が優先されると思う。

今日の想い 1345

 おそらく今の食口達に、聖霊に満たされた体験や神霊が降りた体験はないのだろう。昔あったという食口もいるかも知れないが、遠い昔でその感覚を忘れてしまったのだろう。清平で身体の癒しに与ったが、それは外的なものであってそういった内的体験だとは思わない。聖霊体験は超感情体験であり、神霊体験は神の叡智が下る超思考体験だ。聖霊体験をもって信仰の本質である母の位相に入るのであり、神霊体験は聖霊体験を積み重ねていく中で神とひとつになる父の位相に入っていく。教会が神霊協会と冠しながら神霊が降りない神不在のままの教会であるなら、教会の摂理的意義は失っていかざるを得ない。最近の日曜礼拝に参加することで聖霊神霊体験を受け取れる自分と意志を確認できるだろうか。自分の中にそれらに向かう内的意志を備えて内的体験を増やすことで、私に真の母が共にいて真の父が共にいる、即ち真の父母を内在する私になれる。教会の教えを守り願いに応えるべきなのは入り口に過ぎないのであって、それを目的化されていないか、或いはしていないかを自分に問うてみる必要がある。確かに願いに応えなければならないとひた走りに歩んできた。一世であればアボジと接した機会も多く、いろんな思い出話を語ることもできるだろう。しかしそういった体験がそのまま内的体験とはならない。またどれだけ夢にアボジが現れたとしても、それもそのままで内的体験をしたとは言い難い。感情を超えた感情を受け取り、真理を超えた神の叡智を受け取る、という霊的体験こそ信仰方針とすべきだ。献金や伝道が無意味だというつもりはない。献金活動も伝道活動もそういった体験を得る活動とすべきだ。そういう体験に繋がってこそ本当の献金であり伝道だと思う。

2024年11月21日木曜日

今日の想い 1344

久方ぶりに訪米以前にお世話になった一八の先輩夫婦に会ってきた。こちらは年相応に薄くなり体形だって以前の見る影もないが、その先輩は重ねた齢にしては若々しく、90年代当時と差ほど変わってない。時間も限られていたしそれほどのめり込んだ話はしなかったが、私が思っている教会の状況や摂理の把握とは随分ちがった認識を持っている印象は受けた。解散請求に対してもっと戦う姿勢を持つべきではないかとの問いに対して、アボジは反対する者に対しては勝手にやらせておけというスタンスだったし御母様も二世三世に力を入れておられて問題に対してどうこうしろとは言われないという回答だった。周りは見えないか無視して御母様にだけ意識を向けるのであり、起こったこと、起こっていることに対しての個の意見というものはない、或いは持たない。勿論私がそう発言すると相手もいい気はしないだろうから言いはしなかったがそう思った。今は食口達が昔のように同じ考えで同じ思いで同じ活動をしている訳ではない。しかし食口は同じであるべきという思いが未だに抜けずにいるものだからそれ故に齟齬が生じてしまい、違いを受容できないセクトが発生する。教会が分裂したのはみ言葉の解釈の問題ではなく、違いを受容できない心の狭さから分裂している。私は御母様と御母様に従う教会を否定しないし、H1H2であっても否定はしない。否定しないがのめり込みもしない。教会の論理解説と信仰指導に忠実な食口は忠実な食口で彼らなりの使命があるはずだ。しかし忠実に見える食口であればあるほど、一般社会には独善的色合いが濃くみえる。その状態も日本の他の何々村と同じで、中心者が何を言おうが受け入れるのが当然、右に倣えが当然という日本特有の自我圧迫の段階から抜け出せないように思う。

2024年11月15日金曜日

今日の想い 1343

シンシティ(罪の街)をサンシティ(太陽の街)にされたアボジは、最低階級を最高階級にという低い位置から次第に高みへと段階を踏むのではなく、最低を極めれば最高に瞬時に通ずるという新しい概念を地上にもたらした。絶対は最も忌み嫌われる生殖器を最も尊く聖なる生殖器に創造されたのであり、刑務所を楽園に変えられ、愛する息子を亡くした悲痛の日を愛を賛美して歓喜する真の愛の日に変えられ、大量殺戮したサタン的人物を祝福され、そして地上地獄を地上天国に変えられた。私達がアボジに倣うなら日本人的でもある生温い喜怒哀楽を、自分も相手も驚くくらいの印象を与える喜怒哀楽を魂に刻むことで、憂いや安らぎ、嬉しさや苦しさの本質を学ぶ。しっかりと怒ってこそ内的な安らぎの意味を知ることができる。地上的な感情である喜怒哀楽から逆説的で、或る意味霊的な感情としての憂い安らぎ嬉しさ苦しさを学ぶ。言葉の選び方が正しいかどうかはわからないが、言いたいところの意を是非汲んで欲しい。イエス様は神殿で商売をしている商人に対して怒り狂った。アボジの近くで歩んできた者ならわかるようにアボジの怒号は毎日のことのようだった。私もアボジの怒号を浴びたが次の日には満面の笑みで接して頂いた。普通日本人なら夕に朝に態度が変わるようなことはないし、先ず感情を表に出さないだろう。怒りでもない安らぎでもないその中ほどで中途半端に振動していて大きく振れることは先ずない。そうなると地上生の経験は薄く霊界へ刻み込めるものとはならない。少し話がぶれてしまったが、私も含めての提言として堕落だ非原理だと顔を背けるのではなく、堕落の底で純潔の意味を知り非原理にどっぷり浸かることで見える原理の偉大さがある。もし罪が罪のままであって、罪が太陽に変る天の采配を見るのでなければ永遠に地上地獄は終わらない。

2024年11月10日日曜日

今日の想い 1342

 旧約では割礼を受け、新約では洗礼を受け、そして成約では祝福を受ける。割礼を受けることで神との契約を結ぶわけだが、これは神の人間の肉体への働きかけだ。洗礼を受けることで神への信仰を立てるわけだが、これは神の人心、すなわち人間の魂への働きかけだ。そして祝福だが、これを受けることで神の息子娘となるわけで、これは神の人間の心霊への働きかけとなる。私達は神の霊を祝福を通して戴いているという、この内的誇りを常に保持することでクリスチャン達の内面とは異なっていることを理解する必要がある。というのは戴いた霊という実感は未だに霊的に鈍い私達にはない。だから祝福の真の意義もあやふやで実感としてないし、やもすれば御父母様に対しての不信や今までの歩みがさも無駄だったかのように憂う食口もいるが、しっかりと自分の良心に意識的に尋ねることが必要だし、自分の良心を通して教えられてこそ魂に実感として積み重ねられる。アボジが聖和されて私は途方にくれたけれども、み言葉という遺言書の最終結論の一つとして良心宣言が謳われたのは実にありがたいし、私達の道は羅針盤である良心に照らされるはずだし、良心を通して生きたアボジに向き合っている。良心に尋ねながらみ言葉を訓読し、良心に尋ねながら方向性を決め、良心に尋ねながら喜怒哀楽を味わい、そうすることで自分の良心は朧げな印象からより実感的な良神となっていき、自分自身が祝福により与えられた神の分霊の表れと変革する。これこそが過去の私に対する新自己、生まれ変わった真の私であり地上のアセンション(昇華)だ。

今日の想い 1341

 米国第47代大統領としてトランプが選ばれた。先の大統領選出の折に大量の偽装が疑われたが、おそらく今回もそれなりにあったとは思っている。しかしそれが問題にならない程の圧倒的票数を取ったトランプ側の大勝利だった。どこの誰の企みなのか、おそらくそうであろうと察せられる数回の暗殺の企てがあり、それをも乗り越えての勝利だが、狙われるのはこれからも続くだろうから油断はならない。DS側にすればトランプに政権が移行した時点で相当の犯罪が暴かれ裁かれるとなるとおとなしく引き下がるとは思えないからだ。ハリスの敗北宣言スピーチも実に素直に認めただけに何か裏があると思ったのは私だけだろうか。トランプは早速に憲法修正第一条である言論の自由とそこから導かれる知る権利が侵されているとして、DSが関わってきたSNSや言論へのセンサーシップ(検閲)すなわち言論規制を撤廃する発令を就任直後に出すと明言し、政府関連のあらゆる部署、NPO団体、教育機関、SNS関連会社等、全てを調査して犯罪に関わった者の懲罰、或いは偽装情報によって得た政府予算の打ち切り等々のクリーンアップを速攻手掛けると明言した。バイデン政権を筆頭にバイデン政権に関わって悪事を働いていた、或いは甘い汁を啜り続けてきた者達は戦々恐々の状況にある。人身売買とエプスタイン関連、大量移民流入と凶悪犯放任、ウクライナ戦争とハマスイスラエル戦闘、FRBとインフレ問題、その他バイデン政権によって起こされた問題は山積みだが、トランプなら一気呵成にやると期待も大きい。日本の政府もバイデン政権べったりだったし、メディアによる言論誘導も度を超えていたが、アメリカが変われば当然日本も変わらざるを得ないだろう。阿部元首相の暗殺からの解散命令の動きにも変化が見られるはずだ。トランプは阿部元首相暗殺が誰の手によるものかわかっているし、なにせ彼自身が同じ手の者による銃弾で亡き者にされそうだった。今後の経済、金融に関しては詳しく触れていないしどう出るか予想もつきかねるが、以前記したようにそう簡単に立て直せるとは思えない。とにかく1月20日、先ず就任式を無事に終えることが一里塚だろう。2025年は暗い未来しか見通せなかったが、ここに来て一条の光が差し込んできた。

2024年11月2日土曜日

今日の想い 1340

 地上界の全ては霊界という原因があっての結果世界だ。地上界の中で人間だけが結果世界に生きながら原因世界である霊界にも働きかけることができる。話は全く変わるが私達の資産とは何だろうか。だいたい資産と言えるものを持ち合わせているだろうか。世界には多くの資産を保有している富裕層が存在しているけれども、どうも一般食口とは無関係の世界に思えるだろう。一般に資産とは有形資産を言い、不動産、貴金属、債券、お金等を言う。有形資産があるなら無形資産があるのかというとあるのであり、実はこの無形資産こそが有形資産を生み出してくれる。無形資産とは健康であったり能力であったり、ビジネスモデル、顧客リスト、人脈等を言う。その中でも人脈が特に大切で人脈を通して他の無形資産を得ていくことができる。しかし教会関係の人脈だけだと、今までの摂理が献金に重きを置いていたためにどうしても有形資産を失う流れになってしまう。教会摂理が全てではないにも関わらず時間という限られた天の賦与をそこに皆注ぎ込むものだから、人脈や自己投資が疎かになって結局は有形資産の形成に失敗する。献身とはそういうものだと言われるけれども、本来環故郷以降献身制度はなくなっているのであり、全てを捧げたから何の資産もないというのは言い訳に過ぎない。錦は飾れなくとも故郷に帰って、それなりの人脈を築きそれなりのビジネスで生計を立てている食口はそれなりにいるけれども、富裕層に至る者が多くいるとは思えない。それはどうしてかというと、ずばり霊界という原因世界を正しく認識していないからだと私自身は言いたい。霊界という言葉を知っているだけで正しく認識していないから万物主管も愛とも言えない等閑な主管であるし、無形資産の大切さやそれを育んでいく信念や哲学も霊界から取り出していない。だいたい資産を増やす意欲もないしそれを善とも思っていない。思考も感情も原理を受け入れた時点で停止したままの食口が何と多いことか。祝福家庭をアベル圏とするなら、カイン圏の人々の方が霊界を知らなくとも無形資産を増やすためにより霊界との関係を知らないうちに深めている。私達は謙虚になってこの世から学び受け入れるべき事柄がたくさんある。その姿勢を持つことで信仰を失うこともないしこの世に染まることでもない。意外と祝福家庭自信が知らない祝福の意義や素晴らしさを、彼等を通して教わることも多々あるはずだ。

今日の想い 1339

 独生女信仰を受け入れられるかどうか、それ以前に論理的には破綻しているだろう。一世、特に原理という論理から入った食口であればそう思って当然であってそうなると今の教会には距離を置いてしまうはずだ。しかし論理を動機とする思考が人間を誘導する時代はすでに過去となっている。今の時代は意志を備える時代であり、個の魂活動で言えば思考と感情とが一つとなって人間としての意志を発動する。地上活動で言えば思考を中心とした科学と感情を中心とした宗教、これが一つとなって芸術や文化を生む。原理という論理にだけ比重を置いても摂理は進まないし、感情を特定のベクトルに向かわせた信仰感情にだけ比重を置いてもこれもまた摂理は進まない。意志を備える時代でどう意志を生むかが問われているのであり、地上に於いてどう芸術創造をするかが問われている。現代はキリスト教文化として花開いた芸術や文化様相が基盤になっているけれども、これからは心情相続した者達が中心となって、心情文化として花開く芸術や文化様相になっていく。いやアボジがメシヤであって御父母様が真の父母として勝利されたのであればそうなるべきだ。独生女論独生女信仰がおかしいと言い張る者も集まりも、それをどう超えてどう摂理を中心的に進めるかの想いも意志も感じられないし、今の教会の集会や修練会に参加しても、今もって旧態依然の方法でアベル的希望的証しを壇上から説法し、食口の信仰を更に硬直化させるよう仕向けているだけだ。話す方も話す方なら聞いて受け入れる方も受け入れる方だ。そんな授受作用によって摂理をどう進めてきたのか、私がおよそ50年歩み続け見続けてきてどれほどの基盤と言えるものを築き上げてきたのか。従来の信仰教育は先天では功を奏しても、個々人にまでありとあらゆる善神悪神の業としての荒波が押し寄せている今となっては乗り切る木切れにも筏にもならない。修練会でみ言葉面(ヅラ)をした霧散する言葉であったり、信仰面をした薬にもならない証しだったり、今はそんなものに関わっている暇もないほど摂理としては轟音渦巻く激流の最中にいる。その実感のない教会も食口も、もちろん反対派と旗を立てる集まりも、彼等はいつから信じる神を挿げ替えたのかと思うほど摂理に無頓着で実に神の願いからズレたところで歩んでいる。そうなると頼みは祝福を受け心情相続した自分であり、自分の中に用意された良心であるのに、未だに中心柱が定まっていない。