トランプは一方でイランにバンカーバスターを打ち込みながら、その一方でNATO諸国に軍事費5%、日本に3.5%を約束させた。防衛をアメリカ頼みではなくそれ相応により負担すべきだと詰めているが、それによるアメリカの防衛経費削減と、アメリカからより武器を買わせる諸外国の軍事費アップの意味は、アメリカの経常収支の赤字改善と武器輸出による貿易収支の黒字増しであって、これは結局は経済の話だ。トランプは関税交渉にあたって各国が保持しているドルの外貨準備の買い増しと保留の扱いを暗に仄めかしている。今売られれば困るからだ。同じように周辺の火種を材料に各国のアメリカからの武器購入を強化すべきだと露骨に責めている。MAGAはアメリカの国内製造を推し進めているが、既に多くの製造業はもぬけの殻であって売るものと言えば武器以外大してない。すなわちMAGAの手段は武器製造と武器輸出を強化するという方向に集約することになる。トランプは戦争危機に乗じてまで手を加えたり引いたりしながら負債大国アメリカの生き延びる道を模索した。ディールとして何でもありなのがこの政権だ。トランプに理解のあるタッカーカールソンですら爆撃に対して苦言を呈していたが、イランにミサイルを撃ち込むというカードを使ってまでディール材料とした。しかしこれで負債を減らす見通しがたったわけではなく、相変わらず8兆ドルもの国債償還が迫る7月8月を迎えることになる。さてその時に向かってトランプはどんな秘策を提示するのだろうか。
2025年6月29日日曜日
2025年6月26日木曜日
今日の想い 1389 (2025年の七の月)
ノストラダムス、2000年問題、2012年マヤ暦の終結、そして今巷で話題になっているのが2025年7月の大災難予知夢。私はこの手の話には常に触手を動かしてきたのでどうなるのだろうかと興味深々だ。今まで当たらなかったのだからこれだって眉唾ものだと大概の人は思うのだろうが、さてどうなるだろう。5日という日にちまでは本人も触れていないから拡散するうちに尾ひれがついたのだとは思うが、日本の動き、アメリカの動き、世界の動きを見ていてこの7月8月あたりに政治や経済に関わる大変化が起こる可能性大だと思っている。それと前後して蕩尽(自然による蕩減というべきか)としての犠牲的災難も起こるはずだ。時を支配する大天使は常に悪神の業と思われる出来事に表裏するかたちで善神の業を用意している。それは個人の路程に於いてもそうで、悪い出来事が起こってそれだけで終わるのではなく、その犠牲を供犠として受け取り恩恵として差し出されるものは必ずある。しかし飽くまで内的霊的な恩恵が中心、すなわち学びであって、その気付きで新しい理想と希望に橋を架けるという地上の具体的発展は人間である私達にかかっている。だから災害や災難が起こった時、先ずどういう態度を取るかが大事だ。海は資源の宝庫だ。海が何らかの影響でかき回されれば眠っていたそれなりの資源も表出する。新たな資源を手にできればエネルギー革命が可能であり、それが社会生活に於ける革命となっていく。こう記せば外的表面的な面ばかりに意識の光は当てられるけれども、実は内的霊的な見地に立てばこの大災難は奇跡的大恩恵となるはずだ。精神世界が以前から言っていた、フォトンと呼ばれる特別粒子が地球に押し寄せ、人間の意識革命がなされ大地の大清掃によって地球再生される次元上昇、すなわちアセンションであり、アボジが語られ食口なら当然知っているところの基元節を超えてなされるD-DAYだ。よって心配と恐れを感情魂に満たして迎えるか、それとも遂に神様が直接主管される時を迎えたと歓びと感謝と誇りを満たして迎えるかで受け取るものは全く違ってくる。
2025年6月25日水曜日
今日の想い 1388
トランプは遂にイランの核があると言われている施設にミサイルを撃ち込んだ。即世界戦争勃発、、とはならないが、戦争嫌いのトランプがまさかの行動を取ったせいで、これが引き金になり数多の国を巻き込むやも知れない。しかしこれが正しいチョイスなのかどうかは現時点では何とも言えない。先ずイランは限定的であれ確実に報復はするだろう。ドル基軸の西側経済を破綻させようと思えば、エネルギー源の補給路を抑えて閉めてしまえば西側経済の首根っこを締め上げることになる。イランはその拠点ホルムズ海峡を封鎖する。しかし本当に封鎖するかどうか。当然日本は多大な影響を受ける。いや最も影響を受けるのが日本だろう。しかし中国だって同じ補給路を使っておりイランにすれば同盟国中国の嫌がることには躊躇するはずだ。ということで現時点では何とも言えない。米軍の核施設攻撃によって、ネタニヤフの核を持つイランに対する攻撃、というのは言い訳としてはなくなるので、アメリカがイスラエルの更なる攻撃に対して一言持つことにはなる。こうやってあれやこれや思索しているうちにトランプはイスラエルとイランに停戦を認めさせたようだ。それがどの程度のものかは未だにわからないけれども、トランプ流の駆け引きで先ずはウンと言わせたのだろう。とにかく即世界大戦への道か、、と思われたのが一先ず立ち止まることができたのは良かった。ドル基軸信任への懐疑、アメリカの弱体化、政府の莫大な負債を抱えて二進も三進も行かないアメリカを抱えて、それなのに或る時はエースを、そして或る時はジョーカーという、我々が思いもしないカードを使いながら秘策を出し行動しているのは流石としかいいようがない。今回はトランプであってもネオコンの言いなりにならざるを得なかったのかと、随分心配もしたが天の試練を掻い潜り選ばれた人物だけのことはあるようだ。
2025年6月16日月曜日
今日の想い 1387
神様は我が子を愛したいという一心でこの天地万物を創造された。同じように堕落世界であっても親は我が子の幸せを願う一心で子供の環境圏を用意する。私達のみ言葉訓読は訳のわからない経の漢字の羅列を意味もわからず追うのと同じで、ただ追うことに意味があるのだろうか。どれだけ訓読しようともそれだけでは愛の本質は掴めない。愛に関するみ言葉は山ほどあり、祈りでも会話の中でも始終使う愛という言葉だけれども、言葉だけが氾濫して恰も愛し愛されていると誤解したまま年月を経てきたのではないだろうか。食口は優しいけれども愛の本質は優しさではなく、先ず厳しさが立たなければ言葉だけの愛、等閑な形だけの愛という真の愛とは異なるものとなってしまう。私達は本当に御父母様を愛し、兄弟姉妹を含む教会を愛していただろうか。「どうぞこの者達をお許しください。彼等は愛の本質を知らず受け取れなかったのです。」もしアボジが神様にそうとりなしの祈りをされていたとしたら何とも幼い、どこまでも愚かな我々であったと思う。アベルを通してアボジからくる願いにひたすら応えようとしてきただけだ、その言い分を聞かれてアボジは頷くだろうか。私達は親に、愛すればこその一言ができて当然の子女であるはずが、ただただ言われるままに蠢いていたとしたら子女ではなく奴隷だろう。愛でこそ全てを獲得できる。そうでなければ神様は愛の神様ではない。私達は教会を失いかねない状況だが、失って初めて教会への想いが、即ち教会を愛するという意味が理解できるのだろう。私は今の教会が神が愛する、摂理を牽引する教会だとは思わない。皆の切なる想いは今の教会には感じ取れない。教会を親なる神の宮として失うまいとする必死さは伝わらない。子供は愛で繋ぎとめているように、教会を子供のように想う愛が私達から欠如していたら失ざるを得ない。それは愛の原則だ。
2025年6月15日日曜日
今日の想い 1386
2025年6月12日木曜日
今日の想い 1385
青春よ早く過ぎ去れと叫ばれたアボジは青春がもたらす何をして過ぎ去れと思われたのだろうか。堕落人間、とりわけ男性の堕落人間は衝動、それも恋愛衝動や性衝動に違いないと思うのだが、その言葉に対してその前後もどういう機会に述べられたのかも定かではないので何とも言い難い。アボジとして摂理的使命の観点から言われたとしても、敢えて人生ではなく青春なのだから意味合いとしては遠からずだろう。そう仮定して話を進めるけれども、今となっては青春期はとっくに過ぎ去ったはずなのに未だにその衝動を持て余している自分を見ると、ひたすら我慢に我慢を重ねてここまできたけれども流石に衝動=罪、堕落性とはならないことは理解している。教会は敢えて言葉は使わないにしても禁欲主義であるのは間違いない。水産部の男だらけの環境に巡回師の御姉様が来て何を話すのかと思ったら、性欲を抑えられず自分で慰めているという告白を受けたがこれは明らかに罪だからそういう行動は絶対しないようにと、壇上から居座る男性全体を見まわし声高らかに申し渡された。その場が気まずく誰もが視線を落として遣り過ごしたが、私自身はではどうすればそういう衝動を抑えることができるのか聞きたかったのだか当然手を上げられる雰囲気でもなく、うやむやなまま気恥ずかしいままで終わった。巡回師も幼く食口全般も幼かったが、もし当時禁欲主義として我慢一辺倒に抑え込むのではなく、罪としての衝動を人間本来の創造的衝動の一面と捉える教育や、その衝動エネルギーをどう実体的創造へと、他の為に生きる人格の向上へと変換できていたら教会の発展と成長は目覚ましいものとなったはずだと私は思っている。衝動は遠ざけるものではなく、それをどう捉え主管し変換していくかにかかっている天から与えられた生きる力だ。しかし先天時代の教会のただただ否定する在り様は蕩減時代故だったと受け取るしかない。
2025年6月8日日曜日
今日の想い 1384
社会的人間として公的な位置でみ言葉にそぐわないものは悪だと断定するのはいいだろう。不倫も悪だし同性愛も悪だ。しかし当事者に対して不倫をしたから距離を置くとか、同性愛者だから罪を犯していると当然のように対するのは違うはずだ。救いに至る道筋を示そうとするのならまだしも、自分はそういう間違った道に向いてもいないしそういう要素も全くないと言わんばかりに上から目線で対している。我知らないうちにだ。そして相手を前にしたら線を引いて関係ないかのように立っている。はっきりいって私はそういう食口が良心に向き合っているかどうかを疑う。私は不倫に至る内外の環境圏から遠ざかっていただけで、もし同じ境遇にあったらそうなることはわかりきっている。今までそういう試練と環境に会わなかっただけの話だ。また自分自身は同性への指向は全くないけれどもそういう人は食口も含めて多く知っている。特に原理を聞いた(幸か不幸か聞いてしまった)彼等の、一般人からすれば想像もできない精神的苦痛と人生の辛さは計り知れない。彼等の多くは自らその道を選んだのではなく生まれながらの、というか気付いてみたらという宿命的な人生だろう。それを思うと原理を伝えることが彼等の救いではなく、裁きを下すことになるのではないかと躊躇してしまう。多様性を性の問題解決に持ち込み、何でもありとするのは危惧するけれども、現実に自分の性の指向に悩んでいる者に対してどう救いに至らす道を示せるかどうか。今世だけではどうにもならず世代を超えて地上生を重ねなければ解決できない問題なのだろうか。み言葉は素晴らしいけれども万民に幸福をもたらすものかどうかはどうしても疑問が残る。
2025年6月5日木曜日
今日の想い 1383
親なら誰であっても子供は可愛いし、真っ当な人間になって欲しいと思って育てている。しかし日本人にとって真っ当な人間とは他人様から指さされない人間だと思い込んでいて、置かれている社会環境に受け入れられるかどうかが心配だし、引き籠ったり成績が付いていけなかったりすると途端に親として苦悩し始める。自分はアメリカ生活が長かったが、そうであってもやはり日本人特有の村社会意識は骨の髄まで染み込んでおり、教会が掲げる子女の在り様そのままを教え込むことに相当のエネルギーを注ぎ込んだ。私にとっての村社会とは個団であり教会だった。聖日礼拝日曜学校の参加から始まり子女の修練会やキャンプ、他の祝福子女に合わせて行動できるように付いていけるようにという心配で常に接していた。しかし親の心配を知りながらも子供はことごとく教会を嫌った。常に嫌々ながらの行動だった。海外に出て日本をみると、どうでもいい集団社会故にやらざるを得ないことだったり、子供の成長と独立には必要がないどころか返って害になりかねないという村社会的指導や教育で、子供達が雁字搦めになっているのが見えてくる。なんとか社会の枷にはまるように成長させようとするけれども、そうなると子供の自主性や主体性に対する教育は等閑になる。日本のあらゆる分野において自主性主体性の欠落が見え、そんな国は全体主義でなければ立ち行かない。私は子供に対してハイスクール卒業を機にパッタリと押し付けることを辞め彼等の選択に任せることにした。たとえ間違った道に歩みかけてもそれでも親として選択肢は提示するけれども選択は彼等に任せた。勿論それで万事うまくいくはずはない。しかしそれでも親がしゃしゃり出ることは彼等の甘えを助長し主体性の芽生えを塞ぐことになる。全ての祝福子女に対して勧めたいのは、先ず親元を離れ日本を離れること、そして自分の中に神を見出す、即ちみ言葉の上で良心を見出し従うこと、この二つだ。どれだけみ言葉を学ぼうにも日本の空気の中では教会内でさえみ言葉を受け取るだけでその本質を掴もうとはならない。その受け身のみの意識は他の日本人子女にも言えることで、日本に居ながらにして自主性主体性を身に着けることは相当の覚悟を要する。解散問題がどうなろうとも教会も日本も今のままでは立ち行かない。危機は逆説的にはチャンスだ。雁字搦めの日本、信教信条の自由さえ蔑ろにする日本であって今こそ出エジプトを神は願われている。日本は遠からず打たれる。それは神の摂理だと私は確信している。