御母様が独生女だと天の威信をもって宣言されても、だいたい私自身が独生女の霊的価値がわかっていない。宣言される以前も以降も私自身御母様に対して何も変わらず御母様は御母様だとしか言いようがない。教会の学者が講義され説明されても、私には悟りどころか知的理解もできなければ感情も受け入れない。勿論私の知情意の感覚のみで判断してそれが正しいとは言えないので完全否定することも全く受け付けないと背けるわけでもないが、今までの信仰観とどう整合性を取ればいいのだろうか、、に留まっている。アボジがメシヤだ真の父母だというのも、アボジを通して救いに与ったという内的確信があるから私を救って戴いた御方という認識はあるものの、アボジが語られる真の父母の概念が正しく私の中にあるとは思わない。しかし未だ曖昧に理解していても、信じることしかできなかった様々なことが、それなりに長い信仰生活を通して内的霊的認識に至ったことでより確信できるものとはなった。しかし独生女信仰を取り入れることは、これまでの私の信仰生活による基台や実りを一端否定するところから始めなければならない。だから何の疑問も蟠りも持たず今までの延長線であるかのように独生女信仰を持つ食口に対しては否定的というより不思議でならない。だから私の場合、御母様が独生女宣言ではなく「私はひとりの人間に過ぎません。アボジ故に輝いています」と宣言されていたとしても、御母様は御母様であって何らその天的価値に変わりはありませんと応える。問題は食口の大半が独生女信仰を心底旨として御母様に接しているのかどうかだろう。その信仰がありながら御母様が収監されるのを見るのは耐え難いはずなのに、大した怒りの爆発も悲しみの爆発もなく空気はどこか冷めている、とそう思えるのは私の偏見だろうか。一体化を大真面目に問うなら表面的なことではなく本質を注視し、本質的課題を取り出さなければならない。ただただ御母様を担ぎ上げて持ち上げることしかしなかった者達が一体化を口にすることなど言語道断だ。一体化だ悔い改めだと渇いた言葉で騒いている、祝福家庭という名ばかりの群衆を哀れに見られながら、御母様は裸のまま収監される。
2025年9月24日水曜日
2025年9月23日火曜日
今日の想い 1416
私は己が位置を持ち上げる為だけのこの世に対する非原理圏だ堕落圏だというのが嫌いだ。同じように責任を果たしたつもりになる条件なるものも嫌いだ。特に条件祈祷は大嫌いだ。私達は事ある毎に悔い改めの条件祈祷、一体化の為の条件祈祷、献金や伝道数の為の条件祈祷、常にそんな条件祈祷に明け暮れてきた。果たしてそれらが信仰基台になり得ただろうか。昨晩ついに御母様が収監されてしまった。、、で、私達は何をするのだろうか。相も変わらず悔い改めと一体化の為の条件祈祷に明け暮れるのだろうか。頭を垂れて上目遣いに時計を見ながら、心無い言葉を連呼し如何にも的な涙まで流しながら、時間がきたらその祈祷時間が嘘のようにケロッとした表情で会話を交わし飯を食う、あの条件祈祷だ。意味を為さないどころか返ってサタンの思うつぼに嵌まり込んでいる。それで悔い改めたつもりになり一体化したつもりになってしまっている。先天時代の訓練場としての教会ならそれで良しとされるのかも知れないが、今は雛から成鳥になり飛び立つ実践の場だ。訓練の場で培った内的霊的備えでもって、責任を自らに問われる実社会で結果を差し出し頭角を現す必要がある。アボジが肩代わりされたダンベリーの経験で私達は痛いほど容赦ない現実を思い知らされたはずが、愚かにも相も変わらず揚げ足を取られる材料満載のまま同じ失敗の道を進んでいる。教会食口の稚拙さここに極まれりだ。今回その付けを私達が担うのではなく事もあろうに同じ失敗で御母様を差し出してしまった。本当に悔い改めるというなら切腹ものであり、本当に一体化というなら裸の御母様に先ず進言すべきだ。いや、進言すべきだった。
2025年9月22日月曜日
今日の想い 1415
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、、。方丈記の頭にある言葉のように時の河の流れの人々も元の人々にあらず絶えず変わっている。自分自身もその中に組み込まれながらも悠久の時代からすれば一瞬間を生きて、その流れの中から時代の方向性を知ろうとする。アボジが生きた時間を共に生き、そして今御母様が生きている時間を共に生きている。同じ時間を生きているものだからダンベリーのアボジを見て、そして収監されるかも知れない御母様を見ている。見ることで魂に刻まれる体験を得ている。しかしダンベリーの時の体験と同じことを御母様を見る体験に見てそれで果たして納得できるものだろうか。「御母様も同じ運命を辿られるのか、、」そんな単純な物言いで済まされることだろうか。側近の方の証しとして御母様は群がるマスコミ人に自叙伝を配るように言われたとか、検察の設問に対して返答ではなく独生女であることを説明されたとか、加えて食口への報告でその御母様の言動に感動したとも言われた。御父母様がどんな立場に立たれようが、どうにかしてアボジや御母様を持ち上げようとばかりに余念がない。それは責任者のみならず食口達皆が同じ感覚であって、その場でそういう物言いは誤解されますとは誰も言わない。随分以前の話だが、米水産摂理に責任を持たれる為に南米から人事でこられたP社長がおられた。私はこの社長をそれまでの中心者の誰よりも尊敬していた。尊敬する点はいくつかあるが一番は御父母様に対して本人の思われるところをはっきり申し述べられるところだった。兎に角先ず持ち上げようとする他の責任者とは異なっていた。気分を害されてもそれでも進言されていた。どれだけの責任者がそういう態度を取られたか知らないが殆どはそうではなく、常に持ち上げ続けられて来られた御母様が、内的霊的にはさておきこの世的な正しい判断ができるとは私は思わない。私達が一体化しなかったからこうなったのであって、先ず悔い改めなければならない。それはそうだろう。しかし一体化の意味を本当にわかっているのだろうか。ただただ御題目のように一体化一体化と祈り続けて、当然のようにわかっているつもりでいるのではないだろうか。本当は私達は何もわかってはいない。わかっていないのにわかっているつもりでここまできた。先ずそのことを悔い改めるべきだろう。御母様の機嫌を取って持ち上げて、問題を曖昧にしたまま引き延ばして、それが一体化? そんな裸の王様でどう摂理は進むというのだろうか。
2025年9月18日木曜日
今日の想い 1414
地上で起こる表面的な事の背景と霊的本質とは異なる。地上で起こることは、ああだったから、或いはこうだったからこうなったと時間経過の原因結果で理解するが、霊的本質は地上で起こったことが起点、すなわち霊的結果の原因的要素として提議される場合がある。だから地上で霊界の実態を知ろうとするのは至難の業となる。アボジは様々な勝利圏を立てられた。勝利圏を立てられる以前と以降とどう違うかと言われてもさして目に見えるような形で違いが現れるわけでもなく、受け取る食口にしてみても、そう言われるからそうでしょうと言うに留まっている。実は勝利圏を立てられたという結果を提示され、その勝利の要素を未来に地上で起こさせる。大きな歴史の流れで言うとイエス様が神様が愛の御方だというのも、その言葉が真実であるために歴史を通し人類を通して背景的原因を築いていく。御父母様は真の父母の勝利圏を立てられたことは周知の事実であるのに、御家庭に様々な問題があるのをみて果たして勝利されたと言えるのかどうかと疑念を抱くのかも知れないが、勝利圏は立てられ、そして立てられたが故に地上に於ける背景的原因が必ず築かれる。今回、御母様がどういう道を辿られるかはわからない。表面的な違法と思えることに関与されたのかもわからないし、されていないのかもわからない。しかし重要なことは御母様が勝利された御母様であって、その背景的原因として国から罪を問われる場面がどうしても必要だったと捉えることができるということだ。だから以前に述べたように、国がどういう判断をするかは二次的なもので、御母様がどういう行動と態度を取られ、どういう言葉を食口に世界に述べられるかだ。イエス様が当然のように十字架につけられたように、そしてアボジが逃げるでもなく言い訳するでもなく当然のようにダンベリー収監に向かわれたようにだ。
2025年9月14日日曜日
今日の想い 1413
アメリカで保守系の若き指導者が銃弾に倒れた。日本のメディアでもそれなりに報道はしていたが、ナショナリズムで若者を扇動し差別社会を容認する人物だと評してみたり、銃社会の問題を問うてみたりという、相変わらず左派のスタンスで的外れな物言いが多かった。暗殺した犯人像がまだ浮彫にはされていないが、自分は社会で憂き目を見ることはないと、人生の落伍者だと認識していなければこんな卑怯な犯行には及ばない。それが単独犯であれ誰かの指示を受けての犯行であれ同じことだ。人間は元来が弱い存在だ。社会から疎外されないだろうか抱えきれない問題が起こらないだろうか、常に戦々恐々とし怯えながら生きている。私の田舎では家庭であれ村社会であれ関係性の問題から自らを追い込み、あの家の誰が首を吊ったこの家の誰が農薬を飲んだ等と常に耳に入ってきて、当時の子供心にはただただ怖かったがそれなりに大人になると人間の弱さ故の結末だということが理解できた。それは自分自身の弱さを誰よりもわかっていたからわかったことであり、そんな自分は何よりも精神的な強さを求めていた。そして教会に出会い原理を学び、この信仰で自分は強くなれることを確信できた。しかし信仰路程を通してわかったことは、本当の強さを手にする者は本当の弱さを知った者だということだった。そして本当の弱さを知るには自己の責任分担を遣りきる必要がある。責任分担を全うすれば神が働くのはそうだろうが、そのイメージと異なるのは責任分担を通して先ず自分の弱さを痛みとして知る、言い方を変えると頭ではなく魂で知るのであり、その魂の枯渇に天の恩賜が湧き水の如く満たされて内的強さとなる。誰かにすがり神にすがるという弱さは、それは弱さではなく甘えであって甘えを弱さと間違えている者が食口を問わず多いが、甘えから強さを引き出すことはできない。常に甘えをゆるしたままでどれほど信仰年数を重ねても何一つ悟りを得ることはないだろう。神様は甘えている個人も群れもことごとく無視され関与されない。本物か偽りかは信仰態度に表れる。己の弱さを知る本当の強さを得た者こそが激流の時代に生き残れるだろう。
2025年9月6日土曜日
今日の想い 1412
H1が第四アダムだと、当然のように摂理観として述べているが、アボジの語られたみ言葉のどこにもそれはない。自分はそう信じていると言い張るのは構わないが恰もアボジが断言されたかのように述べるのはいいことだとは思わない。あるブログでH1に従う二世の講義というか説明動画を目にした。一通り視聴したがH1が第四アダムありきで語っているのでどうも入ってこない。真の家庭の価値とその真の家庭を祝福家庭が守らなければならないのは理解できても、ではどうして御母様についても、そして他の御子女様についても語ろうとしないのか、H1オンリーなのかがわからない。誰につくにしろ自分は私の内側ではなく外側の誰かに自分の求める方向性を見出そうとしている。誰かに自分の生きる羅針盤を求める限り、いつまでも独り立ちはできない。アボジに我が行く道を示して戴いていたがもはやおられないので、アボジに代わる誰かが当然必要だ、という先天的凝り固まった認識から御母様に従い、またH1H2に従っている。アボジが良心宣言された意味を捉えられないうちは良心に代わる教会が必要で、その意味で導き手の御母様も、H1H2も必要なのは理解できるが、この道こそが正道だと壇上から権威あるが如く語る、かつての教会の修練会ばりの同じ顔つきで語られるのを見ると溜息が出てしまう。旧来のあの修練会的威圧感で食口が付いてくると思っているのだろうか。それぞれ良心のある存在であることを認めて並列に双方向で語りながら高みを目指すべきではないのだろうか。それが縦社会の教会をやめて横社会で繋がる家庭連合になった意味だと私は思う。
2025年9月5日金曜日
今日の想い 1411
島国日本の独特な村社会で生きていくということは、全体の空気、周囲の空気を読みながら、あるべき姿勢、あるべき振舞いを学んで出る杭にならないように合わせていくことが要求される。しかし教会は日本社会から見れば出る杭どころか突拍子もない団体で、空気を歪める異質な空間として弾き出されるのは時間の問題だった。ゴリゴリの左翼ばかりではない右翼や保守からも疎まれているのを見ると機会あれば抑え込みたいと思われていたはずだ。たまたまなのか画策されてなのか、元首相暗殺事件の当人が教会問題に絡めての犯行だと自白するものだからこの機会を逃すまじということになる。教会がどれ程嫌われているかを認識していた一世にすれば、教会の名前がメディアに踊っただけで鉄槌が振り下ろされることは自明だった。信仰信条の自由を掲げたとてこの日本社会ではほぼ無力で意味を為さないこともわかっていたはずだ。犯行を犯した当人が教会に恨みを抱き、しかしその矛先を関係のない元首相に向かわせたのは、日本社会全体を巻き込みより破壊の影響を大きくしたい、そして己が恨みを注目されたいという悪鬼に憑かれた身勝手がある。彼は日本の、空気を読むことを要求される村社会に辟易していたはずだ。あるときから恨みは言い訳に過ぎず何らかの形でただ教会を壊し日本社会をぶっ壊したかった。そして表面上はひどい犯行だと言いながら本音ではほくそ笑んでる重い空気感に抑え付けられた大勢の民がいるはずだ。そして教会からの締め付け空気感に息絶え絶えだった多くの食口の安堵感も伝わってくる。しかし束の間の安堵感の後には虚無感に襲われることになる。人生をかけて信仰の道を歩み天に宝を積んできたつもりが心の奥底を探しても何ら見当たらない。しかしこの虚無感こそが初めて神霊が私に訪ねて下さる機会になる。息を吐き切れば新たな空気としての神霊が吹き込まれる。神霊が訪ねて下されば良心の声を聞くことができる。それが成約のペンテコステだ。
2025年9月4日木曜日
今日の想い 1410
あなたが金の王、KING of GOLDですか。鉱物世界に於ける王の王であって、その位置では当然他の鉱物間の橋渡しの役割もあり、事実地上ではあなたの許可故に物々交換から金銭交換へと物流への飛躍的発展を見ることができました。しかしその位置を原油に譲り、更には裏付けもない紙幣という国債に流してしまったのは一体どういう理由からそうなったのでしょうか。人類は堕落しましたが万物は堕落していないことはよくわかっています。そして万物以下に為り下がった人類は当然鉱物界の存在にも劣る訳ですから、万物をただのモノとしてしか扱わない人類には距離を置く以外の方策がなかったのはわかります。しかしあなたの不在をいいことに、地上の王気取りの一握りの人間達は、あなたの権威の衣だけを装い地上の独裁を我が物にしてきました。そして地上を荒らし放題の末、その偽りの権威が暴かれ始めると、もはや紙幣はバベルの塔ほどに積み上げて天に届く訳もなく、火力発電か何かで燃やす以外の代物ではなくなってしまいました。人類が救世主、王の王として君臨される時を待ち望んでいるように、人類が万物との正しい関わりを取り戻す為には、万物の王の王であられるあなた以外の万物の救世主は他に見当たりません。通貨が暴落すれば当然比較故の台頭は見受けられます。しかしそれだけで地上世界の経済活動という万物との関わりが正しい関係に収まるとは思えません。不肖わたくしも通貨価値の見劣りから幾らかの蓄えはしてきたつもりです。それが利益を生むに留まらず、形骸化した鉱物世界に再び王の王を迎え、神の身元で仕えたあなただからこそ可能な、金地金に生命を吹き込んでください。物言わぬ鉱物が口を開いて意見する、そんな時代の到来を生きているこの目で見届けたいものです。
今日の想い 1409
この地上生に生きるとは人との関係を持つこと、そして時間空間を含めた万物との関係を持つこと、そして自分の肉体と魂と自我に関係を持つことの三つだろう。おそらく信仰を持つ者の観点では神様との関係性が大切なのにどうして触れないのかと思うかも知れないが、神様との関係性は地上生の次元を超えた関係性なので同等に並べるのは無理があるからだ。人との関係性からの子女繁殖、万物との関係性からの万物主管、そして自分との関係性からの個性完成という三大祝福がある。祝福とあるけれどもどれも自動的に降ってくるものではなく意志して掴み取るものだ。日本の食口は或る時から経済摂理が中心で、いかに集めて献金するかを問われてきた。万物が何か、お金が何かを問うこともなくひたすら集めて流すことに追われてきた。子女繁殖である伝道がみ言葉を伝えるという表面的なことではなく、どれほど対象者を愛するかであるように、万物復帰もものとして扱う表面的なことではなく、どれほど万物を愛するかが万物主管に関わってくる。それはものを大切にするに留まらず、如何に集めるかに留まらず、万物の本質をどれほど尋ね理解したかが愛することの第一歩であって、万物が存在する霊的意味を尋ね万物を万物たらしめる原因世界、すなわち霊界を訪ね心情世界である霊界でどう心情的役割を果たしているのかまで尋ねなければ愛による主管とはならない。周囲にあるものは自分のものだと主張しても、その万物の心情的な言葉を発するのを聞くのでなければ主管しているとは言えない。あらゆる万物はそれぞれの種としての中心的存在として霊界で活動しそこに繋がっている。それは種族の王であると共に種族の親でもある。親を訪ねて事情を尋ねるのが万物を愛する近道だ。表があって裏があるのを知るが、裏こそが表の本質であり、形状に対する性相は形状の本質だと教えられたように、原因世界である霊界、心情世界である霊界を常に関心を持ち意識することで地上のからくりも見えてくる。