御母様が独生女だと天の威信をもって宣言されても、だいたい私自身が独生女の霊的価値がわかっていない。宣言される以前も以降も私自身御母様に対して何も変わらず御母様は御母様だとしか言いようがない。教会の学者が講義され説明されても、私には悟りどころか知的理解もできなければ感情も受け入れない。勿論私の知情意の感覚のみで判断してそれが正しいとは言えないので完全否定することも全く受け付けないと背けるわけでもないが、今までの信仰観とどう整合性を取ればいいのだろうか、、に留まっている。アボジがメシヤだ真の父母だというのも、アボジを通して救いに与ったという内的確信があるから私を救って戴いた御方という認識はあるものの、アボジが語られる真の父母の概念が正しく私の中にあるとは思わない。しかし未だ曖昧に理解していても、信じることしかできなかった様々なことが、それなりに長い信仰生活を通して内的霊的認識に至ったことでより確信できるものとはなった。しかし独生女信仰を取り入れることは、これまでの私の信仰生活による基台や実りを一端否定するところから始めなければならない。だから何の疑問も蟠りも持たず今までの延長線であるかのように独生女信仰を持つ食口に対しては否定的というより不思議でならない。だから私の場合、御母様が独生女宣言ではなく「私はひとりの人間に過ぎません。アボジ故に輝いています」と宣言されていたとしても、御母様は御母様であって何らその天的価値に変わりはありませんと応える。問題は食口の大半が独生女信仰を心底旨として御母様に接しているのかどうかだろう。その信仰がありながら御母様が収監されるのを見るのは耐え難いはずなのに、大した怒りの爆発も悲しみの爆発もなく空気はどこか冷めている、とそう思えるのは私の偏見だろうか。一体化を大真面目に問うなら表面的なことではなく本質を注視し、本質的課題を取り出さなければならない。ただただ御母様を担ぎ上げて持ち上げることしかしなかった者達が一体化を口にすることなど言語道断だ。一体化だ悔い改めだと渇いた言葉で騒いている、祝福家庭という名ばかりの群衆を哀れに見られながら、御母様は裸のまま収監される。
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