ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、、。方丈記の頭にある言葉のように時の河の流れの人々も元の人々にあらず絶えず変わっている。自分自身もその中に組み込まれながらも悠久の時代からすれば一瞬間を生きて、その流れの中から時代の方向性を知ろうとする。アボジが生きた時間を共に生き、そして今御母様が生きている時間を共に生きている。同じ時間を生きているものだからダンベリーのアボジを見て、そして収監されるかも知れない御母様を見ている。見ることで魂に刻まれる体験を得ている。しかしダンベリーの時の体験と同じことを御母様を見る体験に見てそれで果たして納得できるものだろうか。「御母様も同じ運命を辿られるのか、、」そんな単純な物言いで済まされることだろうか。側近の方の証しとして御母様は群がるマスコミ人に自叙伝を配るように言われたとか、検察の設問に対して返答ではなく独生女であることを説明されたとか、加えて食口への報告でその御母様の言動に感動したとも言われた。御父母様がどんな立場に立たれようが、どうにかしてアボジや御母様を持ち上げようとばかりに余念がない。それは責任者のみならず食口達皆が同じ感覚であって、その場でそういう物言いは誤解されますとは誰も言わない。随分以前の話だが、米水産摂理に責任を持たれる為に南米から人事でこられたP社長がおられた。私はこの社長をそれまでの中心者の誰よりも尊敬していた。尊敬する点はいくつかあるが一番は御父母様に対して本人の思われるところをはっきり申し述べられるところだった。兎に角先ず持ち上げようとする他の責任者とは異なっていた。気分を害されてもそれでも進言されていた。どれだけの責任者がそういう態度を取られたか知らないが殆どはそうではなく、常に持ち上げ続けられて来られた御母様が、内的霊的にはさておきこの世的な正しい判断ができるとは私は思わない。私達が一体化しなかったからこうなったのであって、先ず悔い改めなければならない。それはそうだろう。しかし一体化の意味を本当にわかっているのだろうか。ただただ御題目のように一体化一体化と祈り続けて、当然のようにわかっているつもりでいるのではないだろうか。本当は私達は何もわかってはいない。わかっていないのにわかっているつもりでここまできた。先ずそのことを悔い改めるべきだろう。御母様の機嫌を取って持ち上げて、問題を曖昧にしたまま引き延ばして、それが一体化? そんな裸の王様でどう摂理は進むというのだろうか。
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