地上で起こる表面的な事の背景と霊的本質とは異なる。地上で起こることは、ああだったから、或いはこうだったからこうなったと時間経過の原因結果で理解するが、霊的本質は地上で起こったことが起点、すなわち霊的結果の原因的要素として提議される場合がある。だから地上で霊界の実態を知ろうとするのは至難の業となる。アボジは様々な勝利圏を立てられた。勝利圏を立てられる以前と以降とどう違うかと言われてもさして目に見えるような形で違いが現れるわけでもなく、受け取る食口にしてみても、そう言われるからそうでしょうと言うに留まっている。実は勝利圏を立てられたという結果を提示され、その勝利の要素を未来に地上で起こさせる。大きな歴史の流れで言うとイエス様が神様が愛の御方だというのも、その言葉が真実であるために歴史を通し人類を通して背景的原因を築いていく。御父母様は真の父母の勝利圏を立てられたことは周知の事実であるのに、御家庭に様々な問題があるのをみて果たして勝利されたと言えるのかどうかと疑念を抱くのかも知れないが、勝利圏は立てられ、そして立てられたが故に地上に於ける背景的原因が必ず築かれる。今回、御母様がどういう道を辿られるかはわからない。表面的な違法と思えることに関与されたのかもわからないし、されていないのかもわからない。しかし重要なことは御母様が勝利された御母様であって、その背景的原因として国から罪を問われる場面がどうしても必要だったと捉えることができるということだ。だから以前に述べたように、国がどういう判断をするかは二次的なもので、御母様がどういう行動と態度を取られ、どういう言葉を食口に世界に述べられるかだ。イエス様が当然のように十字架につけられたように、そしてアボジが逃げるでもなく言い訳するでもなく当然のようにダンベリー収監に向かわれたようにだ。
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