2025年9月14日日曜日

今日の想い 1413

 アメリカで保守系の若き指導者が銃弾に倒れた。日本のメディアでもそれなりに報道はしていたが、ナショナリズムで若者を扇動し差別社会を容認する人物だと評してみたり、銃社会の問題を問うてみたりという、相変わらず左派のスタンスで的外れな物言いが多かった。暗殺した犯人像がまだ浮彫にはされていないが、自分は社会で憂き目を見ることはないと、人生の落伍者だと認識していなければこんな卑怯な犯行には及ばない。それが単独犯であれ誰かの指示を受けての犯行であれ同じことだ。人間は元来が弱い存在だ。社会から疎外されないだろうか抱えきれない問題が起こらないだろうか、常に戦々恐々とし怯えながら生きている。私の田舎では家庭であれ村社会であれ関係性の問題から自らを追い込み、あの家の誰が首を吊ったこの家の誰が農薬を飲んだ等と常に耳に入ってきて、当時の子供心にはただただ怖かったがそれなりに大人になると人間の弱さ故の結末だということが理解できた。それは自分自身の弱さを誰よりもわかっていたからわかったことであり、そんな自分は何よりも精神的な強さを求めていた。そして教会に出会い原理を学び、この信仰で自分は強くなれることを確信できた。しかし信仰路程を通してわかったことは、本当の強さを手にする者は本当の弱さを知った者だということだった。そして本当の弱さを知るには自己の責任分担を遣りきる必要がある。責任分担を全うすれば神が働くのはそうだろうが、そのイメージと異なるのは責任分担を通して先ず自分の弱さを痛みとして知る、言い方を変えると頭ではなく魂で知るのであり、その魂の枯渇に天の恩賜が湧き水の如く満たされて内的強さとなる。誰かにすがり神にすがるという弱さは、それは弱さではなく甘えであって甘えを弱さと間違えている者が食口を問わず多いが、甘えから強さを引き出すことはできない。常に甘えをゆるしたままでどれほど信仰年数を重ねても何一つ悟りを得ることはないだろう。神様は甘えている個人も群れもことごとく無視され関与されない。本物か偽りかは信仰態度に表れる。己の弱さを知る本当の強さを得た者こそが激流の時代に生き残れるだろう。

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