人間は感情の動物だという。だから人間に対するときは感情で対する。しかし動物も植物も次元は異なろうとも感情はある。自我がなく言葉を持ち合わせていないので自分で表現する限度はあるが、感情の動物である人間が言葉にならない言葉を汲み取ろうと思えば、動物でも植物でもそれなりに分かり合える。しかし鉱物となると感情で対そうとする人間は相当数限られている。鉱物は感情を極限まで押し殺した存在だ。自我どころか個という概念までも否定し風と水と土と火の道理にどこまでも従っている。人間の喜怒哀楽の感情的側面を完全に取り去れば風水土火となる。人間は鉱物を用いて様々な創造を為してきた。アダムとエバに神様が息を吹き込まれたように、人間は創造したものに息を吹き込んでいる。私は今二年半前に両親のために用意したこじんまりとした家で母と暮らしている。20年前に建てられた決して新しい家屋とは言えないけれども、以前の家主が丁寧に使いメインテナンスも良くされていて、初見したときにこの物件に決めた。その時決めた内的要因があって、吹き込まれてきた霊的息吹の愛称が私に合っていると感じたからだ。両親が引っ越すまで掃除したり手直ししたり、内装の壁紙は業者に頼んだけれどもその他は大体自分でやった。この家に入るたびに口にはしないにしても「ただいま」と声をかけ、壁を優しく撫でながら愛でていった。この家は私を快く受け入れてくれる意思が伝わってきたし、事実私と両親(今は母のみだが)を守ってくれている。食口の万物に対する態度が唯物的なのは、原理の知的側面にのみ光を当てて感情の部分を蔑ろにしてきたからだ。霊界の実在を認めながら地上という結果世界にどのように霊が働いているかを見ようとしない。住んでいる家に対しても、着ている服に対しても、人々の手から手へと旅して辿り着いたお金に対しても、全ての万物に対して耳を傾け、背後にある感情を備えた霊的本質に触れなければ万物主管とはいわない。霊に触れれば彼らは声を発する。食事の前に長い祈りを捧げずとも、心を込めていただきますと声をかければ御飯は光り輝く。愛でながら行儀よくいただけば霊的に食することにもなる。
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