老いは若さを経験した後に訪れる。若さを経験せずしては老いは経験できない。おそらく、老いた誰もが若かりし頃を懐かしむだろうし、若さを羨むだろう。アボジは青春よ早く過ぎ去れと言われながら、その意味は若さという暴れ馬をなだめるに相当の力を注がれ、欲がほとばしる肉体を主管するのにご苦労されたからだろう。と、勝手に私は思ってはいるが、真意はどうかはわからない。青年期を超えられ壮年期、そして老年期を迎えられたとき、若さや若かりし頃をどう思われただろうか。若さは激しい新陳代謝で維持されている。若い肉体は数年でほとんどの細胞が入れ替わるが、毎日毎日数千億という細胞を死に追い遣って捨てながら、それ以上の細胞が生み出され活性化させている。その生へのエネルギーの投入となると植物や動物の比ではない莫大なエネルギー量だ。しかし老いると、新陳代謝は相当に穏やかになり細胞はより自然の法則に同化していく。植物化していきそして鉱物化していく。遅々とした動きを受け入れずして、そして石化してしまいそうな器官を受け入れずしても自らの肉体への恨みは募るばかりだ。肉体の各器官の見事なまでの働き、そしてそれらの器官群の生命維持への統一的働き、更には人間形姿の芸術的様相、若いときはひたすら外界への働きかけに意識は向いているから自らの肉体への奇跡的在り様など見向きもしないが、老いてくると、この肉体からどれほどの恩恵を生きている上で戴いていたかを思い知らされる。いつまでも若い肉体を欲するのは執着だろう。感謝の念で満たすのならまだしも、精一杯生きて生かされて来たのなら憂えるのは良神的ではない。しかし生きて摂理の為にできることはまだまだあったはずだと、その意味で老いゆく肉体が恨めしいと切に思うなら、異なる自我存在に魂を預ける形で地上界へ部分再臨することもあると私は思っている。
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