人には人の時がある。生まれるに時があり結婚するに時があり、臥すに時があり死ぬに時がある。今が自分にとってどういう時であるか、大局的に計りながらそれに呼応できる自分になることである。どんなに泣き喚いて逃れようとしても、自分の置かれた時間と場は自分に必要として自分が選びもし、天も与えた環境だ。足掻けば足掻くほど溺れるが、覚悟を決め全てを甘受して対処すれば想像もできなかった世界に次元上昇する。思うようにはならない人生であると感じたとしても、天に繋がる自分の本質はそうなることを欲してその環境圏を作っている。その環境圏の時間と場を魂の成長の為に最大限に利用するか否かはそれぞれの個性体に委ねられている。過去の堕落因習に染められた観念でわざわざ捻じ曲げて見ている自分を取り巻く環境を、み言で築かれた理念で正しく見る目を養うと、隠されていた本質が環境圏の中に形を現しスッと魂の中にはいってくる。自分の霊肉の要素が今までとは違うもので形作られより多面的な世界の中で生きる。今置かれているこの時と空間を自由に利用しながら機が熟す時、そのチャンスを逃すことはない。富が押し寄せ、福が転がり込み、世界は自分のものとなる。得るに時があり失うに時がある。笑うに時があり悲しむに時がある。しかし神様との愛の因縁は自分の中で高く深く広がり続ける。親なる天の神様に繋がりながら多種多様の環境圏を泳ぎ続ける。一瞬一瞬の未来の環境圏を絶え間なく泳ぎ続ける。時は愛を与え受けるためのツールである。
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