2008年3月10日月曜日
使命の本質
相当に悩みぬいていた日々ではあったが、誘われて教会に足を運び始めはしたものの、自分の救いがここにあるという目が覚めるほどの直感的な感覚が在った訳ではない。新しいことに対して臆病な自分が通い続け関係を深めていったのには別の力が働いていたと思う。それは皆の笑顔であったり孤独な一青年を理解してあげたいという懸命な頷きであったりまた、こそばゆい賛美であったり肩を組んで聖歌を歌う一体感であったりという兄弟姉妹としての心情深い触れ合いに引き付けられて来たということも言える。しかしそれは飽くまで表面的な事柄で、深層の魂の中で何かが突き動かされみ言葉に激しく向かおうとする流れを止められなかったと説明できる。それぞれの食口が伝道され復帰された折、何が自分を揺り動かし最終的にこの道を歩もうと決めた決定的条件が何であったか、皆それぞれ信仰年数が数十年の単位で通過した今、そこを思い出し魂に確認させることが必要だと思う。神様が神霊でこの自分に働きかけたその接点、そこに自分がこの道を歩む理由があり使命に対する鍵がきっとあるはずである。復帰されてからの少なくない期間、受動的姿勢を一貫して取りながら訓練を受けてきた。そして今その接点、原点に返って自分の使命を認識し、押さえつけてきた能動的心魂を表面に出し、そして直接的に神霊や絶対善霊と交わり授受しながら建設創造する過程に入っている。降りかかる神霊に魂が感化され新しい魂の活動が繰り広げられていく自分を発見すべき今、しかし多くの食口は眠りから醒めず受けることだけでアップアップの状態に未だある。これもやらないといけない、あれもやらないといけない、その意識と状態を続ける限り新しいステージに上昇することはない。願われることをモノとして受け取るとモノとしての発想に終始し、(無いモノ)で(あるモノ)を編み出そうと無理や矛盾が生じる。神様(或いはTF)が願われることの表面下には与えようとする大きな祝福がある。その祝福が理解でき感謝の想いが湧く頃には表面的な願われる事柄は形になりかかっている。ノルマだと言われ、それをそのまま表面的に受け取っても普通達成できない。それが魂が成長する福として次元を上げて受け取ることでノルマのモノより遥かに大きな心情エネルギーを生成できる。それが冷えて物質化すれば要求されるモノに変わる。しかし願いを祝福に昇華させる過程で心情の勝利基準が要求される。自分に与えられた使命を認識しそれを天の祝福として受け止めることが出来れば使命は自ずと満たされていく。
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