2008年3月3日月曜日

血の在りよう

この世のヤクザでさえ義兄弟の契りを結び、血縁以上の繋がりを築く。自分の血が相手の身体の中にも流れ、相手の血が自分の中にも流れている感覚。痛みも喜びも義兄弟のそれを自分のこと以上に味わい、生命を賭することさえも辞さない。為に生きるとは親が子の事を想いただただこの子の為にという純粋な魂の在り様をいう。そこに駆け引きは微塵もないし、子の為に在らねばという縛りもない。為に生きるとは、為に生きなければという思いがある以上本質的な意味での為に生きる在り様とは違う。神様に対し、人類に対し、純粋なる為に生きたい想いを備えられたお方が真の父母だ。純粋培養の真っ白な為に生きる性品を備えた唯一のお方が真の父母であるなら、自分の在り様が不純なものから来たことが分かれば、その御方の子としての位置を得、同じ血統圏心情圏に繋がりたいという切実な想いに駆られてこそ本質を突いている。慕い侍ることを強く強くその度数を上げていくことでその血の在り様に近づいていく。祝福を受けるとはその血の種を受けることをいう。血の種をどう培養していくかは受けたものの責任としてそれぞれに任されている。種は貰ったが育てることに想いが至らない者は祝福の意味を理解していない。自分の血の在り様をよくよく観察する必要がある。祝福を受け真の父母を親として頂いた兄弟姉妹でありながら、なんと兄弟間の関係のよそよそしいことか、淡白なことか。血の在り様が薄い。それは祝福以前の問題とも言える。親が苦労をしているのを見て何も感じない。親の苦労の少しでも自分が引き受けたいという想いがみ旨を歩むことの根底にあるはずなのに、そうではないいろんな動機があるようだ。その辺からでも整理する必要が今の今迫られている。み旨の運動員だけで真の父母との関係性を結べる時は既に過ぎた。山羊か羊か問われる時が来た。その種を頂いたというだけに留まり、堕落の血の在り様に何ら変化をもたらさないなら、種を最初から頂かない方がその人に取って良かったかもしれない。

0 件のコメント: