2008年11月27日木曜日

天的経済構想

人類始祖堕落以来、何千年にも渡る堕天使たちの影響を受けてきた理解力と認識しか人類は受け取っていない。思考様式、行動様式が人類の偽りの親であるサタンに寄っている。人類歴史を通して、文化的に発展して今日に至っていると皆が思っているが、人間本来の知恵のごく僅かしか使っていないし、それもサタンの影響下にある理解力認識力によるものでしかない。近代に於いては、肉的感覚器官を通して受け取る肉的五感を絶対的なものとして、理解力も認識もそこからの積み上げであるため、積み上げた機械科学文明は大きな歪を抱えている。精神科学の僅かな発展が見られ、唯物論に根ざした科学文明に新たな認識が組み込まれていけば、ゆがみが修正され本来の方向に軌道を変えることができるかも知れないが、根底にある認識が唯物的である以上、今の科学文明の崩壊は免れ得ない。一瞬にして、見えていた輪郭が崩れ去る。金融システムが崩れ去り経済システムが崩れ去る。今まで構築されてきた全てのシステムが崩れ去る。サタンの影響を受けた理解力認識力が限定的なものである以上、その上に立つ全ての内外の構築物は砂上の楼閣なのだ。宗教的なもの科学的なものと、水と油のようにその在り様をすみ分けしてきた。内的なもののみ宗教が関与されるべきであり、外的なものは科学の範疇で、そこに内的なものを持ち込むべきではない、外的に恵まれて暮らすことに宗教的なものは関係ないという認識が当然としてあった。それなりの信仰を持つ人にもその認識はある。しかしその認識が崩れていく。それは個々の人間の内から崩れていく以上に、構築されて信じていた外側のシステムから崩れていく。どうするか。新しいシステムを構築する以外ない。サタン的唯物的神経経路として構築されてきたシステムに拠らず、神的、物心両面の本質的神経経路を構築していかなければならない。今までの経済システムは自分の利益自社の利益を追求してきたが、裕福であることを追及する前に人類が平和であることを先ず追求しなければならない。平和であることのシステム構築はまさしく御父様が平和訓経言い換え平和神経と話される様に、み言葉そのものにある。そして平和である為の富の配分が経済システムとならなければならないし、そうならざるを得ない。御父様の事業に対する想いを見れば、利益の追求に一言も言及されていない。食に関する事業もアフリカに見るような飢餓に対する対策であり、ボート事業もやがては食糧難に突き当たる人類救済への漁業への想いにある。事業体に身を置くものとして今までは摂理をバックアップする為の献金活動を主体に置いてきたが、経済システムそのものを構築する本来的事業の在り方をこれからは追求していくべきだろう。御父様が種として撒かれたそれぞれの事業が、必ず新経済システムとしてリンクする、一大経済構想を実現すべきだ。

今日の想い 26

無意識的な行動の中にこそ、サタンが関与している。今、自分を振り回す事柄が悪であり、自分の罪から来るものであると認識する場合、それに打ち勝つ事ができない自分の弱さこそが責められる事であり、ある意味罪への衝動はどうすることもできない場合が多い。悪を行わなかった、罪を犯さなかったと言えるのは、恐れゆえに罪を犯す状況に自分をさらけ出す勇気さえ無かったとも言う事も出来る。悪の環境に自分を置く勇気を持ち合わせていない者は善を行う勇気をも持ち合わせてはいない。恐れゆえに罪を犯さぬように、恐れゆえに悪に手を着けてしまう。日本人として遠くない過去を見るなら、朝鮮にしろ中国にしろ、戦争に名を借りた人権蹂躙が跋扈した。ひとりひとりの意志がそうさせたのでなく、周りに反する事への恐れとそれに伴う全体意志への迎合が、いとも簡単に自分の手を血に染める。そこに神道に見るような日本民族としての高尚な民族魂はない。恐れという動物神に取り付かれた、地べたを這いずる集合霊に過ぎない。上官に命令されるが儘に捕虜自身に掘らせた穴の傍に立つ彼らを、銃剣で突き刺す。目を閉じながらも、横腹に突き刺す腕に伝わる鈍い感覚を、恐れ故に良しとした。躊躇ゆえに中途半端にえぐられたハラワタをその目に焼き付ける事を、恐れ故に良しとした。状況がそうさせたと自分に説き伏せようとも、良心は納得しない。相手国から責められる前に自分の良心が先ず納得していない。それ故に沈黙せざるを得ない。だから悪の環境圏を乗り越えて立っている自分ではなく、恐れゆえに良心を捨てて、この肉の塊のみを護ってきたに過ぎない今の自分である。日本人として決して誰かを、何処かの国や民族を非難できる立場にない。自分自身をいとも簡単に裏切り、その良心すら切り捨ててきた過去がある。それ故にこの国をエバの位置に立てられて摂理を担い、それなりの苦労を積んで来た事が、どれほどの救いであるか。罪の重さ故に狂い死せざるを得なかった、その負債ゆえに呻吟し続け、あの世でも地獄の炎に炙り続けられざるを得なかった我々は、救われたのだ。切り捨てた良心を取り戻していただいたのだ。久しぶりに妻の実家に赴き、一口の酒で過去を吐露した義父の弱弱しい言葉を受け取りながら、言いようも無い罪悪感に襲われた。反吐が出そうな過去が、日本人のどす黒い血としてこの身体の中を流れている現実を直視させられた思いがした。

2008年11月13日木曜日

今日の想い 25

何処までも青い空が天を覆い、澄み切った大気に遠くのほうまで輪郭がはっきりと見て取れた。そんな昨日までが嘘のように、今朝はどんよりした雲が沈んでいる。木々はその覆いの殆どを剥ぎ取られ、味気の無い骨組みを曝している。傷口に塩がかかるように、冷たい霧雨が降りかかる様が痛々しい。11月も半ばに入る。まだ冬到来には間があるとしても、明らかにその覚悟は迫られている。感謝祭にクリスマス。いつもの年なら、ホリデーシーズンに向けてその高揚感が高まる頃だが、そんな気配は微塵も無い。皆が皆、頭を垂れて歩いている。重い足取りに口数は少ない。過去五年以上に渡って資産は膨らんできた。パソコンを叩けば見えてくる、幾らでも膨らんでいく資産を見ながら、自分自身が大きくなっていくように思えた。数字に酔いながら自分の拠りどころを仮想空間に落とし込んだ。たとえ自由になる数字の桁数が増えたとしても、実際数年前なら手にした事もない高額商品をこの手に入れたとしても、喜びは手に入れるまでだ。手に入れたと同時に憑き物が去るように高揚していた感情は逃げていく。そんなはずは無いと次の獲物にかかる。そんな事を繰り返している内に打ち出の小槌は霧散した。一度身体に馴染ませた安楽な生活を、基に戻すには莫大な精神的エネルギーが要求される。食べなければ死ぬものを、死ぬと解っていて食べる事ができない。誰かに食べさせてもらっていたからだ。自分で手を差し伸べ口に入れる労働より、食べない選択を始める。生きることそれ自体が労働だ。生きることの意味が解っていない限り敢えて生きる労働は選ばない。今その入り口にアメリカはいる。酔いが醒めて又酒を求めている。少し途切れただけで又今までのように酔える酒を待っている。アメリカは個人としても国としても生きる意味を悟り、生きる活力を生み出す必要がある。でないなら、アメリカは終わる。その日の食い扶持にも事欠く状況が門口に来ている。

今日の想い 24

この小さい魂の存在理由があるはずだと、鶏が頭を突き出すようにいろんな事柄に頭を突っ込んで見ようとする。み言葉を自分の神経の在り様となすべく、長い年月が通り過ぎた。自分の在り様に人に認められるものなど無いだろう。兄弟の間のことにしろ対社会のことにしろ、自分という存在が必要とされる場面が過去にあっただろうか。そしてこれからそういう場面に遭遇するだろうか。たまにミーティングなどに参加すると自分の不甲斐なさに愕然とする。自分より若い実力もあり優秀な人々に囲まれると居た堪れなくなる。消え入りそうな魂が、その所在の置き場を探しあぐねている。これからのみ旨を背負っていく彼らと比べようも無いが、正直寂しい感じは否めない。しかしその感情を敢えて心地よく感じるべきだろう。御父母様が喜ばれることこそが何よりの我々の喜びだ。その認識に至れば寂しい感情を嬉しく思わないといけない。私の上司は一回り若い。実力も知恵も兼ね備え、更に性格もよく、正に非の打ち所が無いと言っても言い。優しい口ぶりで、権威意識のこれっぽっちも見せず、相手の私を立てようとする計らいを持たせた言葉がすらすら出る。責められるべき何物も無いとなると、ある意味卑怯だろう。今まで全ての上司に、欠点が見て取れた。責めるところがあればこそ、責める思いをヤル気に変化させてきた。ふんだんにある欠陥を餌にして、自分自身に虚栄心を持たせることができた。しかしそれを見出せないとなると、どうヤル気をだしどう自分の存在価値を認めればいいのだろう。より内に向き、自分の存在理由を問い始める以外ない。責め所満載の上司に対してぶつぶつも言い、だから困るんだと横柄な態度も取っていた。それ故に活き活きしていた自分であったことも否定できない。この小さい魂の存在理由は何だろう。実力も無ければ知恵も無い。執着している想いの一つ一つを、たとえ肉が削げようとも無理やりにでも引き剥がす。その事でしか神様の関心を自分に向ける方法は無いのだろうか。人それぞれに存在理由はあるはずだと解っていても、自分のそれが見当たらない。

2008年11月11日火曜日

今日の想い 23

堕落人間は神とサタンの中間位置にあり、神が働く存在であると同時にサタンも働く。神から受け継いだ本性を保持していると同時にサタンから来た堕落性本性も保持している。しかし個々の人間によってその割合は様々であり、より本性的人間もいればより堕落性が強い人間もいる。より天に近い人間と地獄に埋もれきっている人間もいると言う事だ。自分の中にある本性と堕落性をしっかりと捉えられる者とならなければならない。自分の内的在り様がより本性的方向性を目指しているのか引きずられる儘に堕落性の中に埋没しているのかをありありと捉える事ができなければならない。そのように内的在り様を立体的に把握できればその認識は霊界の在り様とマッチしていく。自分の本性が霊界の明るい高みに向かうものであることを認識でき堕落性は暗い地獄を目指すものであることを認識できる。中間位置と言う言葉を唯論理的に解釈しようとすれば並列的発想しか生まれてこないが、本性と堕落性を相反する人間の性相とだけ捉えるのでなく、内的霊的に捉えることで本性的在り様と堕落性的在り様を立体的に捉える事ができると同時に、それに伴う感情であるとか景色であるとか旋律であるとか香りや臭いであるとかの感覚をも感じることができる。その感覚をより鮮明にすることがいわゆる霊視霊聴と言った霊的五感を開いていくことになる。真の父母様に帰依するものは霊的光を与えられている。漆黒の中に埋もれていた自分の内的在り様に真の父母様からくる真の愛の光が差し込み、自分の内的在り様が照らし出される。それによって自分の在り様が直ぐに様変わりする訳ではないが自分の位置をマッピングでき本性的在り様に向かおうとする真の愛の光のさす方向に向かおうとする自分を認識する。五感からくる世界にのみ生きていた自分が、実はそれと同時に内的霊的世界に生きていることを認識し、実はその世界こそ本質でありより実体的であり、自分を取り巻いていた感覚世界は本質的世界に対して対照的陰の世界であることが認識できる。その目が開かれると人生の在り様そのものが様変わりする。

2008年11月9日日曜日

秋に想う

夏の太陽が燐のように宇宙に差し出した赤色黄色の炎の想いを、緑色をより濃くするほどに受け取りながら、木々は溢れる生命要素を大地と大気に提供する。ひと夏を終え与え尽くした太陽が柔らかくなる頃に、生命要素に湧き溢れた季節に酔いながら、収穫の喜びを木々の装いに表しはじめる。澄み渡った秋空のもと、それぞれに受け取った赤色黄色の愛の光を精霊達は全身に装いながら、柔らかくなった光に色彩を躍らせる。優しく戯れる秋風に色とりどりの装いを遊ばせ、見渡す限りに広げられた山々の絨毯は愛の旋律に踊るように波打つ。やがて全ての装いを取り去る宴の終りが来る事を全ての木々は知っている。限られた時間であればこそ一心に彩りを濃くする。その刹那の想いが込められた一葉一葉は花々とは違う美しさが滲み出る。しかし美しければ美しいほどに悲しい。恋に身を焦がした乙女のように、自身の生き繋ぐ要素さえもその装いに費やす。木々に宿る存在達は、太陽に恋したのだ。太陽の放つものへの憧れを捨てきれず、木々の枝枝に幾重にも重なる一葉一葉は、身を焦がすままに深く色づき、やがて地に落ち朽ちる。捨て去られた憧れの想いが枯れ落ち葉のなかで死んでいく。一葉一葉に表現された精霊達の悲しい性は、憧れては捨てられ、また憧れては捨てられ、悲しい輪廻を繰り返す。地面一面に捨てられ重ねられた落ち葉を踏みしめる時、その儚くも可憐な精霊たちは、運ぶ足にすがり付きながら救いを求めて音を立てる。彼女たちは、一途な想いを実らせる事ができた時、太陽へと飛んでいくのだろうか。飛んで行けるのだろうか。枯葉舞う晩秋の一日はそそくさと宵に向かう。美しくも物悲しいこの季節に身を染められると、愛に彩られた遠い記憶が恋しくなる。

人間という媒介体

原理に書いてあるように、有形実体世界と無形実体世界の二つの世界は人間を媒介体としてお互い授受作用をすることにより、初めて神の実体対象としての世界をつくる。媒介体という意味は、両世界が授け受けるために人間として何らかの媒介行為が必要であることを言う。堕落した人間は人間本来の在り様をしていない。要するに堕落し、本来の媒介体に成り得ていない。よって今の分離した地上界と霊界の両世界は授け受けることができず、神の実体対象と成り得ていない。地上界の事物を霊化するという作業こそ媒介体としての人間の在り様、即ち万物の主管、地上界霊界の主管を意味する。人間が本来の役目を果たし媒介体として地上界霊界に関われば、両世界が神の実体対象となり新たな天地が出現すべく地上界も霊界も在り様を変えていく。人間の誕生に見るように、腹中期間は完全に地上世界のみに属し、生まれて呼吸する期間は地上世界霊界とに関わりながら、事物を霊化し自分をも霊化していく。霊の芽だけの存在として地上に重心を大きく置いていた立場から、霊の成長と共に霊界に重心を移していく。肉の衣を脱ぐと完全に霊界のみに属する。本来の感覚が封印されてしまった堕落人間は、未完成であるところの霊化されていない地上界にどっぷり浸かっている。この世で経験する事物を霊化する媒介体と成り得ていないため、受け取る事物を死に至らしめている。媒介体としての人間の位置を取り戻そうと思えば、受け取った事物を思い起こし、感謝と共に事物に対する内的霊的価値を備えてやる事で供養される。即ち神の対象となるべく昇華する。地上界霊界が授受をなしながら神の実体対象界となれば、鉱物の在り様も植物の在り様も、そして動物や人間の在り様も様変わりする。この世界そのものが様変わりする。真の愛の光を帯びて、地球が宇宙が霊化という次元上昇をなす。

2008年11月6日木曜日

狂宴の後

実体経済でものとサービスを売り買いしていた処に、金融商品が売り買いされる金融経済が、悪霊界が降りてきて地上界を覆うように浸透していった。コンピューターの発達と共に、金融工学の予知計算リスク計算が商品の信用度を増し加え、現代の打ち出の小槌を振り続けた。その数字は天文学的数字で、もはや人知の域を超えている。ものやサービスに対する価値創造が限定的であるのに対して、金融商品の価値創造は無限大に広がっていった。いや広がっていくように錯覚した。その錯覚は売れなくなるまで続いた。麻薬によって人は幻覚に踊ることに狂喜し身体を麻痺させるように、金融商品は欲を満たすことに狂喜し数字に対する感覚を麻痺させた。実体経済の重要な部分である血液製造を投げ出してレバレッジと言う何倍にも薄められた裏付けの無い血液を遣り取りする。どれほど数字は膨れても、そこには凝縮されたものは見出せない。赤く染まってはいるが血液の働きを負わせれば幾らでも流れて失う。あぶく銭と言うがあぶく銭よりたちが悪い。一気に信用は収縮し実体経済を振り回している。悪霊界が偽りの信用創造で金の子牛を祭り上げ、社会を踊り狂わせた狂宴は一瞬にして醒め、我に帰った人間社会は茫然自失の状態に今ある。金融に手を出さなかった者でも実体経済との線引きがはっきりとされている訳ではないので、それなりにあぶく銭は流れてきた。多かれ少なかれ皆が狂宴に浮かれた。浮かれた体を引き締め、先ず足をしっかりと地に下ろす決意が必要だ。そうして目をしっかりと見開き本物を探す旅に出発するものはそれを見出すだろう。既に新しい時代を予見させる本物が芽吹いている。バブルが完全に弾け飛んで、本物しか生き残れない時代圏に名実共に突入した。本物の価値創造、本物の信用創造を持ってしてレバレッジを働かせ、爆発的な成長を遂げる本物の組織、本物の社会、本物の地球村が出現する。

2008年11月5日水曜日

自我の住まう処

思考に於ける悟性が極度に発達した現代に、あらゆる理解に論理的な説明を求める。しかしそうして得た理解が感情を動かし意志を動かすかと言うとそう単純ではない。自分の中にこみ上げるものとか、自分を行動にかき立てるものは論理的に説明された理解の中にはない。ある人間真理が理路整然と説明されて理解を得たとしても、自分の行動様式に不都合があれば何らかの理屈を付けて受け入れない。人間の悟性の働きは損得感情と大きく関わっている。論理的に説明できるもの以外の別のものが自分を動かしているのにも関わらず、それを見ようとしない。理解すると言う作業が自分に益する知性や経験によるものとだけ信じるところに食い違いが生ずる。正しい思考を働かそうと思えば、損得を超えた高みを志向するものを自分の中に見出すことが大切だ。本来人間として生まれ出でた以上、誰もがこの志向を与えられている。それは良心の働きにある。自分の中の良心をしっかり捉えて初めて、悟性が正しく用いられる。皮一枚隔てた内側を自分と認識し、外界から自分に取って益となるもの良さそうなものを取り入れる。しかし本当は、皮一枚隔てた内側は自分ではない。本当の自分は皮を突き破り外界の中に存在する。人間は事物の中で生きている。皮膚を隔てた内側は、事物の中に生きている自分を反映するもの映し出すものであり、人生や日常に於ける体験内容は身体によって生み出されるものではなく、霊肉の身体は霊的な体験を映し出しているに過ぎない。飛び込む風景の中に浸透して生きているのであり人との関わりの中に生ずるものの中に溶け込んで生きている。良心は自分だけという意味での損得に関わっていない。把握する外界の益に関わっている。家庭の益であり社会の益であり世界の益、更に宇宙の益に関わっている。外界の益、宇宙の益に関わることこそ神様の身体としての全宇宙を喜びに満たす事であり、それは本来良心をもって神様と一心一体であり宇宙と一心一体である自分をも喜びに満たす事である。

2008年11月3日月曜日

クリスチャンを考える

イエス様は多くの奇跡を弟子に見せられ民衆にも見せられた。聖書を見ればイエス様の公生涯に於いて様々な癒しの業を施され、民衆を魅了されたことがわかる。当時、時代的背景、環境的背景は今と比べようも無いので、奇跡がどのように民衆に受け入れられたかは想像するしかないが、イエス様の奇跡それ自体が彼らの信仰を引き出す事はなかったように思う。奇跡を目の前にして驚きはあったろうし、癒しの業を受けて感謝もしたろうが、信じれぬものを見せてもらったから、或いは助けてもらったから信じるというのは御利益的であり条件的信仰でしかない。事実、我が主イエスがいざ十字架にかかろうとするその時こそ、信者としての振る舞いをすべきでありながら、弟子ですら散り散りになり無関係を装い、ペテロに象徴されるように否定すらしている。キリスト信仰クリスチャンとしての出発は、明らかに復活後に今までに地上に存在しなかった何かが、彼らに届けられた、そこから始まる。それまでに愛と呼ばれるものはあったのかも知れないが、彼らに届いた愛は彼らを根底から揺るがし、彼らが持っていた愛の概念を超える次元の違う愛を受けて、彼らの本質そのものが変わったのだと理解する。イエス様の勝利され勝ち取られた愛を自分の中で生きるイエス様と共に聖霊として受け入れた。使徒行伝に目を通せば弟子達がイエス様の復活前に比べ、同じ人物かと疑うほどに様変わりしているのがわかる。奇跡の権能を行使し、語る言葉には深い知恵とイエス様の愛が宿っている。霊から様々な予知を与えられ、獄に入れられた者ですら霊に助けられ抜け出ている。そのような状態で何の恐れるものも彼らには無い。肉体として目に見えないというだけで彼らが行動し行くところは何処でもイエス様が共にあり聖霊が共にある。共にあることを信じているのでなく、事実共に或る。彼らの肉体を借りたイエス様そのものであり聖霊そのものなのだ。彼ら自身はイエス様と聖霊に全てを委ねる内的在り様で肉体と口を差し出しただけなのだと思う。殉教ですら彼らの覚悟から来るものでなく、委ねることの一つの形でありイエス様がこの肉体を殉教行為として使いたい思いに身を委ねたのだ。彼らが義とされたのは委ねたところにある。完全な委ねる在り様は罪の認識に裏打ちされている。十字架にかかるイエス様を否定してしまったペテロ、率先してキリスト信者を迫害していたパウロ、罪の認識が深ければ深いほどに委ねる在り様は色を濃くする。委ねる事でイエス様が共に或る、イエス様に愛されている、その実感が五感を超え、恐れ等の人間的感情を超える次元の感情を得た。罪の無いイエス様が、サタンに勝利し勝ち取った霊的勝利圏であるステージに、彼らクリスチャンがイエス様に完全に委ねる事で迎え入れられたことを意味する。