2008年11月3日月曜日

クリスチャンを考える

イエス様は多くの奇跡を弟子に見せられ民衆にも見せられた。聖書を見ればイエス様の公生涯に於いて様々な癒しの業を施され、民衆を魅了されたことがわかる。当時、時代的背景、環境的背景は今と比べようも無いので、奇跡がどのように民衆に受け入れられたかは想像するしかないが、イエス様の奇跡それ自体が彼らの信仰を引き出す事はなかったように思う。奇跡を目の前にして驚きはあったろうし、癒しの業を受けて感謝もしたろうが、信じれぬものを見せてもらったから、或いは助けてもらったから信じるというのは御利益的であり条件的信仰でしかない。事実、我が主イエスがいざ十字架にかかろうとするその時こそ、信者としての振る舞いをすべきでありながら、弟子ですら散り散りになり無関係を装い、ペテロに象徴されるように否定すらしている。キリスト信仰クリスチャンとしての出発は、明らかに復活後に今までに地上に存在しなかった何かが、彼らに届けられた、そこから始まる。それまでに愛と呼ばれるものはあったのかも知れないが、彼らに届いた愛は彼らを根底から揺るがし、彼らが持っていた愛の概念を超える次元の違う愛を受けて、彼らの本質そのものが変わったのだと理解する。イエス様の勝利され勝ち取られた愛を自分の中で生きるイエス様と共に聖霊として受け入れた。使徒行伝に目を通せば弟子達がイエス様の復活前に比べ、同じ人物かと疑うほどに様変わりしているのがわかる。奇跡の権能を行使し、語る言葉には深い知恵とイエス様の愛が宿っている。霊から様々な予知を与えられ、獄に入れられた者ですら霊に助けられ抜け出ている。そのような状態で何の恐れるものも彼らには無い。肉体として目に見えないというだけで彼らが行動し行くところは何処でもイエス様が共にあり聖霊が共にある。共にあることを信じているのでなく、事実共に或る。彼らの肉体を借りたイエス様そのものであり聖霊そのものなのだ。彼ら自身はイエス様と聖霊に全てを委ねる内的在り様で肉体と口を差し出しただけなのだと思う。殉教ですら彼らの覚悟から来るものでなく、委ねることの一つの形でありイエス様がこの肉体を殉教行為として使いたい思いに身を委ねたのだ。彼らが義とされたのは委ねたところにある。完全な委ねる在り様は罪の認識に裏打ちされている。十字架にかかるイエス様を否定してしまったペテロ、率先してキリスト信者を迫害していたパウロ、罪の認識が深ければ深いほどに委ねる在り様は色を濃くする。委ねる事でイエス様が共に或る、イエス様に愛されている、その実感が五感を超え、恐れ等の人間的感情を超える次元の感情を得た。罪の無いイエス様が、サタンに勝利し勝ち取った霊的勝利圏であるステージに、彼らクリスチャンがイエス様に完全に委ねる事で迎え入れられたことを意味する。

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