2008年11月27日木曜日

今日の想い 26

無意識的な行動の中にこそ、サタンが関与している。今、自分を振り回す事柄が悪であり、自分の罪から来るものであると認識する場合、それに打ち勝つ事ができない自分の弱さこそが責められる事であり、ある意味罪への衝動はどうすることもできない場合が多い。悪を行わなかった、罪を犯さなかったと言えるのは、恐れゆえに罪を犯す状況に自分をさらけ出す勇気さえ無かったとも言う事も出来る。悪の環境に自分を置く勇気を持ち合わせていない者は善を行う勇気をも持ち合わせてはいない。恐れゆえに罪を犯さぬように、恐れゆえに悪に手を着けてしまう。日本人として遠くない過去を見るなら、朝鮮にしろ中国にしろ、戦争に名を借りた人権蹂躙が跋扈した。ひとりひとりの意志がそうさせたのでなく、周りに反する事への恐れとそれに伴う全体意志への迎合が、いとも簡単に自分の手を血に染める。そこに神道に見るような日本民族としての高尚な民族魂はない。恐れという動物神に取り付かれた、地べたを這いずる集合霊に過ぎない。上官に命令されるが儘に捕虜自身に掘らせた穴の傍に立つ彼らを、銃剣で突き刺す。目を閉じながらも、横腹に突き刺す腕に伝わる鈍い感覚を、恐れ故に良しとした。躊躇ゆえに中途半端にえぐられたハラワタをその目に焼き付ける事を、恐れ故に良しとした。状況がそうさせたと自分に説き伏せようとも、良心は納得しない。相手国から責められる前に自分の良心が先ず納得していない。それ故に沈黙せざるを得ない。だから悪の環境圏を乗り越えて立っている自分ではなく、恐れゆえに良心を捨てて、この肉の塊のみを護ってきたに過ぎない今の自分である。日本人として決して誰かを、何処かの国や民族を非難できる立場にない。自分自身をいとも簡単に裏切り、その良心すら切り捨ててきた過去がある。それ故にこの国をエバの位置に立てられて摂理を担い、それなりの苦労を積んで来た事が、どれほどの救いであるか。罪の重さ故に狂い死せざるを得なかった、その負債ゆえに呻吟し続け、あの世でも地獄の炎に炙り続けられざるを得なかった我々は、救われたのだ。切り捨てた良心を取り戻していただいたのだ。久しぶりに妻の実家に赴き、一口の酒で過去を吐露した義父の弱弱しい言葉を受け取りながら、言いようも無い罪悪感に襲われた。反吐が出そうな過去が、日本人のどす黒い血としてこの身体の中を流れている現実を直視させられた思いがした。

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