2015年4月30日木曜日

今日の想い 848(僕の意識、主人意識)

自分の足りないものは見えなくても、相手の足りないものはよく見える。妻に私が妻に対して見えている不足なものを伝えようとしても、なま返事が返ってくるばかりで響かない。欠損した自分を生きていてもその欠損した自分が全ての自分なので、敢えて見えない部分を認識しようとはしない。もちろん逆もある訳で、妻に指摘されてもそれは私の問題ではなく妻が見えていないだけだと一蹴してしまう。従業員に対してもそうで、主人意識に立っていれば彼等の足りないものはよく見える。彼らが仕事をどう捉えているかは、店や会社のオーナーの意識、主人意識に立っているか、そうではなくて僕の意識のままかに拠っている。実際には主人意識と僕の意識の間の様々な中間位置にある訳だが、会社に対して僕の意識の強い従業員は、仕事の意味はなるべくなら避けたい労働でしかない。しかし主人意識の強い従業員は同じ仕事をしていてもその中で新たな創造を模索していく。価値創造とよく言うけれども、僕の意識で労働的仕事をしている者にはそういう概念はない。消耗する労働なのか、増やして発展していく創造なのかは、働く本人の成長と停滞と共に会社の成長と停滞をも決定してしまう。もちろんある段階までの仕事内容を把握する上で、それ相応の期間、僕の意識は大切であるけれども、そこに留まっている限りは発展性は見込めない。僕の意識に留まり続けることで見えてくるものは、他の従業員の欠点と経営者に対する穿った観察ばかりだが、主人意識に立つことで会社の発展的要素がどこにあるのか見えてくるし、同じ仕事をするにしても、そこに形だけに留まらない精神的なものを遣り取りするようになる。食口であれば精誠という言葉を知っているはずだが、それは信仰条件やみ旨に対するときにのみ使われて現れる言葉ではなく、仕事内容や仕事対象についてもそうで、精誠を込めれば見えない精誠が必ず見える形となって現れてくる。食口も何人か働いているが、そこまで見通して仕事に関わっている者は少なく、労働して対価を得るという社会主義的、唯物的な仕事に留まっている。そうであれば僕の意識のままであって、主人意識に立つことで内外の恩恵や福を会社から得ていく者達と随分差が出てくる。

2015年4月22日水曜日

今日の想い 847

自分や自分の家庭の事で汲々としていると周りは見えなくなる。国政に与る者も自国の事、国民の事だけで汲々としていると世界は見えなくなり、世界との繋がりも切ってしまうような行動を取ってしまい、結局自国の運営も危うい状態になる。汲々とする状況は為に生きて自分を差出す歩みにはなっていない。汲々とするとは、個の中に、より個の中にその存在輪郭を狭めていって、どこまでもX存在に収縮していく。統一食口は逆になるべきだ。存在輪郭を広めていってどこまでもO存在に近付いていく逆のベクトルを用意しなければ、摂理とも関係を持てないようになり、御父母様との関係性も内的に距離を置くようになる。歩む中で問題が生じた場合、どのような態度を取るかがその問題を糧にするのか、或いは罠にするのかという私の主管が決定される。公的な位置の私を立ててその問題に対するのと、自分中心の位置でその問題に対するのとでは、内的霊的に受け取るものに天地の開きがある。自体意識、他体意識という言葉を知っているが、その意識が意識として働くのは問題が認識され問題を前にする時だ。おろおろする焦りが感情に於いて表出するのは私の中にカイン的存在が存在するからであり、カイン的存在が先ず顔を出すのはそれが私の内面で主導権を握っているからだ。一通りのカイン的感情が表出した後で、覚悟を決める必要を認識しようとするアベル的存在が顔を出す。私という内的存在がカイン一辺倒の存在なのか、アベル的存在がどれほど影響を及ぼしているのか、アベル的存在が内的長子権を復帰してカイン的存在を凌駕しているのか、自分が背負う内的霊的世界で神様が主導権を取れる世界なのか或いはサタンなのかを人それぞれで霊的に格付けされている。食口であればあの人はアベル的だとか、あの人はカイン的だとか口にしがちだけれども、そんな判断は人に宛がうものではなく、私の内面を観察すればこそ見えてくるカイン的存在、アベル的存在こそ内的霊的実体だ。ポジティブに捉えることがアベル的私だ、などという曖昧な見通しなど何の役にも立たない。ましてや楽天的な私などアベル的でも何でもなく、私の内面のアベル的存在もカイン的存在も無視して逃げて異空間に自分を置く、霊的なものも肉的なものも否定する幽霊存在だ。

2015年4月19日日曜日

今日の想い 846(神様がアルファでありオメガであるに込められた想い、意志)

「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである。」 黙示録の終盤に記された言葉の如く、神様は原因の神様であり、そして結果の神様だ。それは原因、すなわち性相の神様であり、結果、すなわち形状の神様だ。さらに御父様は私達の混乱を承知で、夜の神様、昼の神様の話もされた。性相の神様、形状の神様までであるなら性形を合わせもった神様という意味で一なる神様であることを否定していない。しかし夜の神様、昼の神様と言われ、夜の神様は失敗しなかったが昼の神様が失敗してしまった、とまで言われるのであれば、一なる神様の概念は越えていて私達の通常の論理思考では測れない。しかし私達人間の矛盾性、すなわち心と体が闘っていると認識できる者は、私という一なる人間の一段階原因を遡れば、心という私の存在と体という私の存在という二つが時間軸を越えて存在しているのがわかる。性相の神様の表示体としてアベルが立ち、形状の神様の表示体としてカインが立った。カインがアベルを殺すことで堕落が決定的なものとなったと言われたのであれば、カインアベルが一体となっていれば(何を指して一体かはここでは問わない)堕落はなかったと言える状況を展開できたかも知れないということだろう。原理に記してあるように、アベルが善の表示体、カインが悪の表示体と敢えて書かずに、性相の神様、形状の神様の表示体としたのは、アベルを殺害した堕落の結果からカインは悪の表示体となったのであり、殺さずに一体となっていれば形状の神様の表示体になったはずだという推論からだが、殺されたアベルの使命を受け継いだセツの側から祭祀集団が現れたのであり、カインの側から石工集団である技術集団が現れている。カイン自身の中でアベルに対する相反する思いに抗う思いはあったはずで、その戦いもあったはずで、アベル殺害動機のみにカインが占拠されていた訳ではないだろう。悪の表示体ではあっても、悪そのものではない。しかし結果としてアベルを殺害してしまった。神様が原因の神様であり結果の神様であるなら、堕落の結果の神様、殺害であり破壊という結果の神様ということになる。しかし神様はその事実を結果としてはおられなかった。それは復帰の神様、救いの神様という犠牲を復帰歴史を通して払いながら、結果が堕落ではない真の愛の結果を結ぶことで結果の神様となるという、神様の決意と覚悟、復帰への執念を宣言されたのが始めに記した「私はアルファでありオメガである」という黙示録の言葉だ。どんな罪深い罪人も、地獄に呻吟する何億という夥しい霊達も、必ず救われるのであり必ず天国に住まう光輝く霊人体に昇華する。それはアルファでありオメガであると宣言された、すなわち完全なる救いをもたらす真の愛の神様であることを宣言されたことから明白だ。心と体がどれほど戦うとしても、カインである体がアベルである心の息の根を止めて、この世の欲を満たすべく誘惑を語る口の乾かないこの世の君に仕えるとしても、思いもよらない機会を善神が捉えて、思いもよらない方法でアベルが立てられカインが復帰される。神様は実に奥妙な働きをされると、ある御子女が語られたが、誰もがそれを実感する機会に出会うだろう。心と体が一体になるよう約束されているように、神人一体理想も未来に約束されている。

2015年4月18日土曜日

今日の想い 845(内的な嘔吐)

何度も何度も自分の中で繰り返している。ひとり事を口籠り呪文のように繰り返している。声に至らないひとり事は表現に至らない感情のマグマだ。時を追う毎に煮えくりかえり、あらぬ機会に爆発する。私は綺麗事を着飾った言葉でお祈りする。しかし祈りをまとめるや否や、自分の中で声にならない言葉を繰り返している。そうして声にならない堕落的感情のマグマが喉元まで溢れてくる。祈りの言葉として発声した綺麗事が偽りなのは、堕落的感情を沈める何の効果もないことからして明らかだ。私はふと思いついた。これを逆にして見たらどうなるだろうかと、、。祈りとは言えない感情の爆発の時間を敢えてつくるとどうなるだろうかと、、。感情を爆発させてのち、堕落的感情に主管されない言葉のみを自分の中に満たせないだろうかと、、。どこかの宗教のように経の一節をひたすら声明するなら、無の心の中にその言葉の生命が浸透してくる、らしい。その一節にどれほどの生命が備わっているのか定かではないが、比べて見て御父様のみ言葉生命はそれに劣るだろうか。問題は私達がみ言葉を消化し切れず、その生命を吸収するには至っていないということだろう。そうであるなら、敢えてみ言葉全体を咀嚼もしないで無理して呑み込まずに、条件的内容を備えて信仰基台を立てることができるみ言葉のみに集中しながら、実体基台という生活行動に以降することで、部分的ではあっても勝利を相続できて証しを立てることができるのではないだろうか。私達は欲張り過ぎてきたのかも知れない。御父様は私達に対して豚に真珠の如く、血と汗と涙の結晶であるみ言葉を毎日のように惜しみなく差し出して下さった。相対しない私達、眠りから覚めない私達に対して、それでも何時間にもわたってみ言葉を差出して下さった。しかし消化し得ないみ言葉が内的霊的生命の糧とはならずに、私の心魂は食当たりを起こしている。食当たりによる内的霊的嘔吐が堕落的感情の爆発だろう。糧になっていないみ言葉は取り敢えず吐き出すしかないかも知れない。私はどのみ言葉をもって生命の糧としたらいいのだろう。生命の糧を得て、生き生きと摂理に貢献できる私を立てることができれば、どれ程有難いだろう。どんな宗教よりも復活できたという証しが立つ。

2015年4月16日木曜日

今日の想い 844

食口であれば、イエス様が地の御方ではなく天から召された御方であることは疑わないだろう。しかしその肉体は地上の要素であって、肉体に関する限りは他の人間と変わりない。クリスチャンは聖霊によって身籠られたと、すなわちマリヤは処女のままで懐妊されたと信じているので、その理解は生理学的血統に於いて地上人間とは異なっている。しかし私達統一食口は、イエス様はマリヤとザカリヤとの間に生まれた御方だという御父様の言葉からして、肉体的には地上人間と同じ、すなわち堕落人間と同じ血統圏からと言うことになる。この事実を踏まえれば、御父様がいわれる天の血統とは生理学的な血統を言うのではなく、霊的な観点からの血統であることがわかる。地上の生理学的見地から見れば同じ血統であっても、霊的見地から見れば堕落の血統とは異なる天の血統だ。それは愛の感性、霊的感性が開かれなければ認識できない内容であって、食口であっても誤解している者は多く、霊と心魂を混同しているように生理学的血統と御父様が言われる堕落の血統、天の血統とを混同している。御父様であっても、御母様であっても、イエス様がそうであるように処女である母から生まれた訳でもないし、生理学的種の保存を否定して肉親を持たずに奇跡的に地上の人間存在になられた訳でもない。霊的血統は地上の生理学的血統を通して表現されるとしても、生理学的血統そのものによって霊的血統圏を価値付ける立場に地上は無い。もしそうなるなら主客転倒であって、地の主管主が天を主管する、堕落によってサタンがこの世の神となって神様をいいように振り回したと同じことになる。祝福の血統圏にある者が不倫をもって堕落したと表現できるとしても、それで天の血統圏から外されるかどうかは祝福を与えて下さった御父母様と自分との関係、もちろんそこに深い悔い改めもあり多大な蕩減も背負う訳だけれども、その縦的関係性を正すことで不倫という間違った横的関係を清算することはできるはずだ。しかしそれは何代にも亘る清算期間が必要かもしれない。縦的血統と横的血統が90度の角度で交わりスパークし、神様の血統が真の父母の血統として地上に出現したことは天宙的一大事件であり、祝福家庭がその血統圏に抱合されているという恩恵は恐ろしい程の、と表現してもいい恩恵だ。だから不倫等の堕落的行動には恐ろしいほどの清算内容が必要になる。罪の根を断ち切ることができなかった人類と人類歴史に、罪の根を断ち切った存在が創出された。真の父母様であり真の父母から生まれた祝福家庭の存在だ。私の中に天の血統が息衝いているのをどれ程実感しているだろうか。それを感じないというなら、天の血統圏にありながらも壊疽した細胞と同じだ。み言葉の流れを止めてしまえば信仰生命も弱くなり、生理学的血統という地上の現実に固執しかねない。それは真の父母の名を口にし、み言葉の本質を捨ててしまって鞘だけを振り回す新種の唯物論者だ。血流が促されてこそ生命が躍動するように、生きたみ言葉を訓読し、生きたみ言葉を堰き止めずに川の流れのように人々の心魂に流していく。そうして真の愛を実感していれば私が天の血統圏にあることは疑う余地もない。

2015年4月15日水曜日

今日の想い 843

確かに40を越えても50半ばくらいまでは自分と家庭に対する内外の希望は持ち続けていた。そうなる為の明確な道筋が照らされていた訳ではないが、なんとなくそうなるはずだという淡い期待の気分はあって、その正しいと思われる気分に酔いながら日々を送っていた。しかしその淡い期待は尽く裏切られ、60に近い今は苦い気分や味気ない気分に浸っている時間が殆どだ。そうなった転機は妻の病でもあるし、悪化するにつれて私は心の余裕が持てなくなり子供に想いを伝え注ぐ余裕もなくなっていて、言い諭すつもりが裁きに近い直情的な言葉となって親子の距離を次第に離していった。妻の病が悪化するのと子供が親から離れていくのとは同時期だった。自分の人間理想と家庭理想のイメージに近付いているという気分で生きていて、そしてそれを信仰だとも思っていたのが、それが或る意味夢から地上的現実に醒めてしまって、信仰的気分の全てが実は夢に過ぎなかったのかどうか、今反芻している状態だ。人間は魂の存在であり、魂は知情意の存在だ。人間が霊的に堕落したのであれば勿論魂に於ける知情意も堕落的様相を呈する。私の人間理想と家庭理想のイメージは、たとえそれがみ言葉に準ずるものだと自分で判断したとしても、やはり所詮堕落的様相が大部分影響しているだろう。そうなるとそのイメージに対する理想主義的だと信じていた感情も、唯の気分に過ぎない堕落的なものだということになる。地上の大地が揺れて崩れる以上に、私の存在基盤だったものが揺れて崩れるのは堪え難い。堕落的私が基盤にしていた心魂の大地が崩れ去る。新しい天と地が御父母様の霊的勝利圏によって築かれたはずなのに、私はその新しい天地が未だに見えない。未だ勝利圏を相続するに至らず、かつて古代歴史に見るレムリア大陸が沈んでアトランティス大陸が隆起したように、崩れ去って霊の海に沈んでしまった古い心魂の大地に代わって、登壇すべき新大地が未だに現れない。人類は大陸が沈んで新しい大陸を見出すまでどうやって持ち堪えたのだろうか。聖教徒達はメイフラワー号でアメリカという新大陸に到着するまでどうやって持ち堪えたのだろうか。私達統一食口は霊的混乱と古い心魂の没落にどう立ち向かったらいいのだろうか。御父様が言われる絶対信仰絶対愛絶対服従の本質とは何だろうか。わかったつもりでいてわかっていないこの本質を見出さなければ、この天宙的転機を乗り越えられない。絶対信仰絶対愛絶対服従は確実に御父様の霊的勝利圏から浮き上がってきた心魂的大地だ。新しい知情意の形のはずだ。堕落故にその様相となった今までの理想としてきた様々な主義的思考を越え、人間愛や正義感等の理想主義的な感情を越え、今までの宗教的敬虔さを越える絶対服従という意を備えていく。老いて去りゆく日の近ければ近いほどに、この新しい心魂の大地を見出して踏みしめたいという想いは切実だ。昨夜来から風雨に晒され、いつ散るとも知れない満開の桜のように、次々と地上生を終えていく食口の報せを耳にしながら、自分のその時に向かう実感が迫ってくる。私は新しい心魂の大地を踏みしめることなくその時を迎えるのだろうか。

2015年4月3日金曜日

今日の想い 842

生きて地獄、死んで地獄の環境でも、そこに天国の為の種を蒔き、天国の為の苗を植えていく。生きて蒔いて植えるように、霊界に赴いても地獄に蒔いて植えていくだろう。天国は愛の種から、愛の種は心情から、心情には犠牲の涙がつまっており、愛の種には犠牲の涙ゆえの為に生きようとする想いがつまっている。天国では地上の犠牲の涙による心情の太陽が輝き、心情の光が霊界を照らしている。天国では為に生きる想いによる愛の風が吹き、愛の川が流れ、愛の花が咲き乱れる。地上で環境創造して地上天国を築いて行くように、霊界でも環境創造しながら天上天国を築いて行く。生きて生活すればどれほど体を自然環境に晒されるだろうか。保育器の中で生活する訳ではなく、触れて晒され食べて晒される。あらゆる病の元が蔓延する中で生活せざるを得ないように、人また人の中で社会生活を営めば、どれほど小さな心魂を波打ちうねる社会環境に晒されるだろうか。山小屋の中で一人生活する訳ではなく、鋭く尖った感情や言葉、鉄槌のような重い感情や言葉が向けられたり振り下ろされたりしながら、そのなかで恨みを買ったり買わせたりしながら、そうやって社会生活せざるを得ない。しかし一方で病に罹ることで抗体ができるように、社会の不条理に晒されて、ある時は血気怒気を誘発され、またある時は汚いものに手を染めるとしても、たとえそうなったとしても心魂を強く大きくしていく為には不条理の波風に晒される必要がある。人は上に立てば立つほど、人の醜さにも、勿論それ以上に己の醜さにも直面する。醜さに直面することは堕落性を誘発されることではあっても、そこに新たに罪が発生することではないだろう。罪は既に無意識の領域に存在していて、それが表面化したに過ぎない。無意識の領域に蓋をしたままでいれば安寧に生活できるかも知れない。しかし無意識の自分こそ本質であり霊界に於ける実体だ。確かに堕落性だと思える不道徳な現実は、私にあるように責任者にもあるだろう。しかしそれを責めるほどの蕩減を私は払っていない。地上の私は社会の波風の中で、堕落的感情を誘発され翻弄されることに対処するので精一杯だ。私は所詮、一つの天法も犯さずに人生を歩み切ることは不可能だ。そうであれば、御父様が言い残された秘法を使うしかない。御父母様の地上での摂理や願いに合わせて実績をつくることだ。基盤をつくることだ。私には上の者をとやかく言える内的な余裕などない。ネットでは御父母様を本当に真の父母か否かを検証してからと思っている者達やら後継者問題に論議を交わしているけれども、自分の霊的生命の消え失せようとしている焦りを覚えないのだろうか。環境創造を手掛けて、それなりの基盤を備えたからそんな遊びに興ずることができるのだろうか。私もブログ日記としてアップしているけれども、これもあぶない趣味であって、興ずればあらぬ迷路に迷い込んでしまう。朝目覚めて、鳥のさえずりを耳に覚える余裕を失ってからどれほどの月日が経っただろうか。ここ数カ月、朝目覚めれば砂が口の中に残っているような感触を覚えて砂漠の中にいるようだ。基盤を築く以前の穴埋め蕩減の毎日が続いている。今日もまた地獄の現実からの出発だ。

2015年4月2日木曜日

今日の想い 841

三大祝福の一つとして個性完成とあるけれども、何をもって個性完成なのか。人格の完成?それは愛の完成?祝福を戴いて自動的に個性完成する訳ではないことは解かっているが、御父母様の血統圏として、仮にではなく実体的に入る過程どはどのようなものだろうか。ようするに私達(私だけ)は何もわかっていない。はっきりとした概念を受け取れずに、おそらく、、だろうな、、くらいの言葉の理解から出発しているものだから、私の中でみ言葉が実体化する過程の試練の困難さや、いつ終わるとも知れない路程期間に堪えられない。そのうちにおぼろげに理解していた内容が裏切られ、見えなかった御父母様や御家庭の情報までが問題として入ってくると、信仰を崩そうとする分子を内面に受け入れてしまって居座わらせてしまう。理解する自分の感性に問題があり、御父母様や御家庭に目を向けるその感性というフィルターに問題があることを既に忘れている。私が蕩減を払い切れずに宙吊りになっていて、御父母様に接木されて同じ血統圏に立つべき新生自分を、サタンに繋がっている過去の自分が盛り返してしまう。御母様が言われること、為されることはどうも違うようで、私は八大教本教材の御父様のみ言葉に立つことを是とする、と言うけれども、み言葉の本質を受け取れない状態で言葉の鞘だけを駆使しながら、わざわざ御母様を否定する理屈を構築しているにすぎない。御父様が地上実体としておられる間はみ言葉の理解が間違っていれば正して下さるだろう。しかし正して下さる御父様は地上におられない。ではどうするか。私達は未だ霊的無知であり、み言葉の本質を言葉を辿るだけで簡単に受け取れる訳ではない。だから正して下さる実体はどうしても必要であって、御父様と一体であられる御母様を地上に戴いている間は御母様に従うのが当然であり、御母様に異を唱える者は我こそ御父様にベクトルを向けていると信じて疑わないが、そのうちにそのベクトルが彷徨うようになり御父様とは異なる偽りの主人に向かっていたと後悔するのは明白だ。霊的無知だから所詮彷徨わざるを得ない。御母様を否定するのであれば、私達が戴いた祝福などあり得ないことになる。御父母様が真の父母様として一体圏に立っておられるから祝福を戴いた私が立っている。地上で親が離婚してどちらにつくかと言うような問題ではなく、私達の祝福は、そして重生した新しい私という自我は、御父母様一体圏を否定すれば成り立たない。絶対信仰、絶対服従は御母様に対して語られたみ言葉?どう頭の回線が繋がればそんな突拍子もない言葉が出てくるのか。唯物論が宇宙を科学という物差しのみで捉えているように、み言葉を言葉の論理のみで捉えて論理的機械脳に従っている。そこに愛が関与されず、よって心情を受け取れず、霊的無知のまま彷徨い続ける。