2015年10月30日金曜日

今日の想い 890

私達の組織は、それが教会であれビジネスであれ、天が願う在り様からずれてはいないだろうか。それは一般の組織が正しく私達の組織が間違っていると言うようなものではなく、どれだけ一般の発展している組織の教訓を学び真似事をしても決してうまくはいかないだろう。組織に於ける体質が変わっていないということもそうだが、そもそも私達の組織は天の願う摂理を担うという観点から出発している為に一般社会から学ぼうとしても限度がある。組織の体質というより体質をつくる観が摂理観に合わせられないといった方が当たっていると思うが、天の願い天の願いと口にしながら、そう認識しようとすることで自分の願いではないと暗に認識してしまっているところに問題がある。天の願いであるけれども自分の願いでもあるという、天の願いと自分の願いが一つにならなければ所詮分裂して消えるか、あるいは私有化されて天と関係のない組織になってしまう。体質を造る一つの観として信仰観があるが、信仰は与えられた中心、上に対して立てるものという、疑うことも無い前提が私達の信仰観としてある。もちろん中心性を立てることは大切なことだが、それは横の関係、兄弟関係はどうでもいいと言う事でもなく、従う者達への配慮は必要ないと言う事でもない。しかし現実に体質としてそうなってはいないだろうか。ここでも上に対する無暗やたらな頷きや同意が、下の者が自分に対しても同じように全ての点に於いて頷き同意して当然だと暗に押し付けている。兄弟として支えあうのは当然のことでありながら関係性に兄弟愛がみられるだろうか。上に立つ者は親の位置で親身に従う者達に接しているだろうか。彼等の意見に耳を傾けようとしているだろうか。さらには一人一人が組織全体に対して能動的に関わろうとはせず受動的であって、すなわち言いなりであってそれでは組織は発展的なものとはならない。100軒近くもあったレストランが減って行ったことに対して、統括する部署はその責任を肌身に感じてはいなかった。採算が取れなければ始末されるのは当然だという思いがあってそこに身を切られるほどの想いがあったとは思えない。それぞれの店の現状の悲惨さを訴えても、それぞれが対処する以外ないと何の足しにもならない等閑(なおざり)の言葉や、傷に塩を塗りつけるような言葉だけの指導で、上の部署は痛みを避ける安住の位置に居続け腰を上げようとはしない。それぞれの店やそれぞれの従業員が自分の一部である手足だという感覚が欠けている。さらに言うと、私達の組織は指導する頭と手足だけが存在し、手足への栄養分を作ったり送ったりする内臓器官が欠けている。必要ないと思っている。そうなるとそれぞれの部署でそれぞれの内臓器官を用意する以外ない。活動して結果を得るためには力が必要だからだ。それはさらに有機的であるべき頭と手足を遠ざけていく。よって私達の組織は頭でっかちのまま手足が壊疽しながら死んでいく。組織に於いてノルマや目標だけが高々と掲げられるだけで、それを達成するための愛を中心とした一体化の為の授受作用は見当たらない。上は下に命令伝達するだけだし、下は上に身を搾り取るように捧げていくだけだ。それを真の愛が関与する関係だと誇らしくも言えるだろうか。私達は今見直さなければ、このまま突き進もうとしても進めないし、勝利の結果をもたらすことはできない。

2015年10月25日日曜日

今日の想い 889

エデンの園にある生命の木はアダムの肉体を意味し、善悪を知る木はエバの肉体を意味している。エバを誘惑する蛇が何かというと、男性の生殖器を意味している。蛇、すなわち男性のその器官がエバを誘惑して善悪の実、すなわちエバの生殖器を取って食べたのであり、男性をまとう本質こそが天使長ルーシェルであって、そうなると蛇=天使長ルーシェルとはならない。しかし彼は堕落の張本人であると明言されているように、或る男性をまとっているけれどもエバを堕落させるとき、男性のその器官に天使長自身の存在を集中させている。この世の男性、堕落人間は自分の妻より美人がいれば普通にその器官が始動するのであり、その場合自分の中の天使長的存在をそこに集中させていると言える。天使長ルーシェルはその器官をして堕落させたのであって、蛇=天使長ルーシェルと理解しても問題はない。全ての男性は自分が毒のある蛇を持っていることを認識しなければならない。その毒は相手を霊的に殺し、自分にもその毒がまわる霊的自殺行為になる。妻以外の女性に対しては天使長の位置に立つのであり、その器官が女性のそれを願うようになれば立派に堕落天使長だ。蛇が善悪の実を取って食べると五感は興奮して悦楽の境地に向かう。人間は五感の感性が備わっているがさらに霊的五感があるのであり、それを開く第六感の中心がそこ、生殖器にある。男性は五感の悦楽を欲張って、蛇の赴くままに複数の女性との関係を求めていくけれども、五感の悦楽と引き換えに第六感の感性を犠牲にしている。私達は妻以外との関係を厳しく禁じられているが、それはときに男性にとっては決して容易いことではない。しかし五感を犠牲にしてでも霊的五感を開く第六感を立てなければ、人間はどこまでも霊的無知のまま居続けることになる。宗教が性を遠ざけ感覚の喜びを否定してきたのは、そうすることで神霊聖霊を感受できる感性を開く為であった。しかし御父様のみ言葉はその次元に留まらない。生殖器に対して、あるいは生殖器を中心として絶対信仰絶対愛絶対服従せよと話される。それは己が欲望のままにその器官を使えという言葉ではもうとうなく、神様の生殖器を絶対信仰絶対愛絶対服従するのであり、神様と私人間の生殖器をひとつにしろという言葉だ。

2015年10月21日水曜日

今日の想い 888

統一教会から家庭連合に、、名前が変更になっただけのことなのだろうか。入れ物が変わっても、あるいは表示を変えても、中身が同じなら、変わっていないと判断されて名前を変えることで誤魔化したと思われてしまう。旧統一教会ですと公言して名前を挿げ替えても、相変わらずあの統一教会と呼ばれてマイナスイメージを受け継いでしまうことは明らかだ。どうしたらいいのか。先ず認識すべきことは、統一教会の構成は教会員であり家庭連合の構成は祝福家庭ということ。教会員イコール祝福家庭だという私達の感覚を先ず壊す必要がある。教会員以前に祝福家庭であるという認識を強く持たなければ私たちの中身を変えることはできないし、家庭連合だと名称を変えただけだということになる。統一教会の柵(しがらみ)を越えて、私達祝福家庭の自由と責任に於いて変わる必要がある。ある意味統一教会という組織に利用された祝福家庭だったが、今度は祝福家庭が家庭連合という組織を利用する。祝福家庭の繋がりを利用して環境を創造していき氏族を復帰していく。今のところ名称が変わっても組織体制は引き継がれたままだが、遠からず教会そのものである今の組織体制は変革されていくはずだ。教会イメージが強い者は組織が崩れて分散していくと見るかもしれないが、縦社会組織から家庭連合という連なり組織に変革していくことになる。立てられた上に立つ者が中心であり父母を代身する者でありアベルだという固定された認識から、連なりの中に中心的存在をそれぞれが見出し下から中心として支えていく。よっていろんなグループが生じるだろうし、それぞれ輪が広がったり狭まったり、引っ付いたり離れたりを繰り返しながら変動的であり、しかし全体として真の父母を中心軸として向かう一大祝福血統圏が地球を席捲していく。祝福は受けたけれども教会に距離を置いてしまい、摂理から離れて生活に没頭していた者達も、それ相応に祝福の恩恵に与れるために閉ざしていた芽を吹き返すようになるだろう。同じ食口とてみ言葉理解の差異がある。心情基準の差異がある。得手不得手があり実力の差異がある。それを無理矢理信仰有り無しの秤にかけられてしまえば最終的には誰も残る者はいない。受動的であるということは、別の表現にすれば囲われ支配されているということだ。能動的であるということは、別の表現にすれば所有権を得て主管性を復帰したということだ。受動的であり続ければ染み込んだ教会体質から離れられない。家庭連合はお上から流れる指示に従う組織ではなく、それぞれの祝福家庭が能動的に活動するためのツールだ。そういう認識に立って始めて中身が変わったと言える組織になれる。

2015年10月15日木曜日

今日の想い 887(裸の女憲法)

非核三原則は国民を守るという観点から出されたものではなく、核や原爆という言葉を口にするのも聞くのも嫌だという日本国民のトラウマ感情を逆なでしないための建前の原則に過ぎない。非核といいながら実のところアメリカの核の傘に守られてきたという部分には触れようとしない狡さがある。日本人の思考がいつから停止したのかわからないが、平和憲法で日本の平和は護られているという感覚が、どう教え込まれれて感覚として染込んだのかわからないが、いみじくも平和憲法を掲げてきた時期と、戦争に巻き込まれなかった時期とが同じであるので、平和憲法故に日本の平和は護られてきたと信じて疑わない。水が只だという感覚と同じように、平和は只だという感覚もある。しかし平和は只どころか金を積み上げても解決できない、それこそ生命を積み上げる覚悟と引き換えに受け取れるのが平和だと言えよう。だいたい今の憲法を平和憲法と当然のように言ってしまうこと自体おかしい。これは平和憲法ではなく、実体のない平和の衣をまとった裸の王様ならぬ裸のエバ憲法だ。平和憲法平和憲法と一つ覚えのように喋り続ける口を塞いで、裸の女憲法と命名して流布すべきだ。「どこからでも誰でも私の貞操を奪ってください」とわざわざ対外に発信する憲法だ。母の国日本ではなかったのか。妻の立場も母の立場も捨てて、貞操観念の無い女であり続けるならいつかは侵されて当然だろう。そんな事態にならないと己の無知に気付くことはないのだろうか。韓国は日本をサタン呼ばわりしてきた。韓国に言わせると植民地化や略奪や慰安婦などといった事柄を挙げているが、それに対して謝り続け保障し続けることが解決策ではなく、当の韓国も気付いてはいないが、夫として立てる妻の役目を日本が果たし、父として立てる母の役目を日本が果たすことが重要であることが摂理的観点から見通せば見えてくる。妻の役目を果たせば妻の権威を立てることができる。母の役目を果たせば母の権威を立てることができる。役目を果たそうという認識どころか、夫に対する妻として立つべきを認めず夫を邪魔扱いする無貞操な八方美人の姿勢が日韓の問題の根元にある。ある意味、日本食口はひたすら韓国の教会本部への献金を通してその穴埋めをし続けてきたと言えるだろう。食口がどれほど無愛想で冷たく、愛の人格を備えてはいないとしても、妻としての本性、母としての本性は日本食口に宿っている。日本食口がいなければ直ぐにでも日本は五分割されてしまう。日本が日本国として維持していられるのは平和(?)憲法のお陰ではない。非核を貫いている為でもない。ましてや経済力や技術力、その民度が高いせいでもない。願いがかけられ期待がかけられているからこそ維持されている。天があきらめれば明日にでも日本は陵辱され捨て去られる。

2015年10月11日日曜日

今日の想い 886(冷たい無表情の神様)

自分を中心とする社会の人間関係を考えたときに、天の父母様を親とする兄弟姉妹であることは先ず基本だというのが私達の認識だ。家族だという思いが強ければ強いほど関係性は強くなり、伝道する確立も高くなると思っている。友達に連れられて最初に教会に入ったとき、「お帰りなさい」と声をかけられどれ程私の心が捕らえられたことか。誰々兄、誰々姉と呼び合い、教会は家庭以上の家庭だった。み言葉に感動して入教したんだと自分でも思い込んでいるけれども、よく思い出してみればそれまで考えたことも無かった原理の壮大な世界観に圧倒されたのであって内容を理解して感動した訳ではない。釣り針で魚を釣るように、見たこともない満面の笑顔で「お帰りなさい」と声をかけられた時点で、私の心に釣り針は引っ掛けられていた。そして引き寄せられ入り込んでいく自分の言い訳として未だに理解しているとは言えない原理云々を持ち出しただけであって、「お帰りなさい」こそが私の心を引っ掛ける愛のツールだった。もちろん兄弟よりは若い姉妹のそれに引っかかったことは言うまでもない。だから原理で伝道するのではなく愛で伝道するというのは確かに頷ける。入教してから43年の歩みは、摂理摂理の厳しい路程に喰らい付いてきたけれども、釣った魚に餌はやらないの諺の如く、雑巾のようにボロボロになっても放置されながら、餌を待つ魚から自力で復活する存在へと化けることを要求された。子供を崖から突き落として這い上がるのを待つ、子の泣き叫ぶのにも動じない獅子と同じ感覚を神様に見てきた。どれだけ神様、神様と泣いて寄り縋っただろうか。しかし一度たりとも泣きの一手で動じる神様ではなかった。愛の神様というけれども、私の思っていた慈しみの愛とは異なる、冷たい、無表情の神様だった。私達は神様がどうもわからないと、神様を認識していないのではない。実は私達の思いたい愛の神様とは異なる厳しい神様を否定して見ないようにしてきただけだ。私達は不安で歩むのではなく、厳しい神様を直視して畏怖の念で歩むべきだ。御父様がどれほど厳しかったか。御傍で仕えれば下心のある不安など吹き飛んで、純粋にその厳しさに畏怖の念を覚え、身も心も捧げようとする感情を抱く。不安感情は自分を守ろうとする個人的感情だけれども、畏怖の念は自分を亡き者にしてでも願いに応えたいと思えるような個人を超えた全体的感情をいう。個人的感情はどこまでも窮し、全体的感情はどこまでも広がっていく。私達は今まで結果を見ずとも許されてきて、厳しい神様であることを直視せず、安らぎを与え慈しまれる優しい神様のイメージだけに執着するから、反対派にお花畑呼ばわりされてしまう。事実どれだけ厳しい御父様だったか。どれだけ日本食口に対して容赦なかったか。私の推測かも知れないが、厳しさの中にも生き延びて、回り道をしてでも、あるいは別の観点からでも御父様を振り向かせようとする狡猾さやしぶとい意志の芽生えを願われたのではないか。日本食口に対して、理不尽なことが多いのを見て取るとそれ以外にはないと思っている。御父様は日本を厳しく、ある意味奴隷の様にプッシュしながら、どこかでそのノルマをものともしない大人物が現れることを願っておられたはずだ。お帰りなさいと声をかけられて引っ掛かるのは確かにおめでたいお花畑人間だ。当時復帰された私達お花畑人間はそんな簡単な愛のツールで引っ掛かるが、今はそうはいかない。訓練された私達はもっと手の込んだ氏族復帰ツール、伝道ツールを手にしなければ、どうして国を料理し、世界を料理することができるだろうか。

2015年10月10日土曜日

今日の想い 885(原理の為の愛ではなく愛の為の原理)

み言葉は訓読に留まるばかりではだめで、み言葉が生きて働いてこその訓読とならなければならないのであり、訓読目標の為の訓読など、生命を入れるための言葉という器をひたすら集めようとしているにすぎない。器には生命が入っていながら、わざわざ中身の生命を無視して空の器ばかりを集めるのは、自分は信仰者だと納得したいという願望を叶えるだけの自己満足だ。量をこなせば愛の人格者になれると思わないほうがいい。質を重要視せずに量を集めることだけに偏るのはカタブツ者で、食口にはカタブツ者、融通の利かない石頭の方が多い。キリスト教原理主義者、イスラム教原理主義者、そして統一教原理主義者だ。学んだ原理は確かに分別する原理、すなわち刀だが、刀を振り回すことは統一ではなく分断だ。統一は原理でするものではなく愛でもって統一する。伝道も原理でするのではなく愛で伝道する。確かに愛で堕落したから愛を退けて原理原則の神様として復帰してきたのは事実だ。しかし真の愛が立つための原理原則であり、真の愛が立てば原理原則で支配されるものではない。原理原則は真の愛で主管されるためのものであって、原理で支配されて真の愛が立つのではない。み言葉には愛という言葉が山ほどあるし、すべてのみ言葉は愛を汲み入れている。私達は訓読を通して、愛という言葉を何千回何万回も口にしながら、しかしそれでも愛の実感を得ずに生活している。朝何時から訓読会、夜何時に祈祷会、訓読のページノルマ、献金ノルマ、今月何人に原理を伝え何人伝道するか、祝福さえも何カップル祝福したかという数字ノルマ、そういった活動は愛の動機があるのだろうか。為に生きる想い、愛したいという想いが流れ込んでいるのだろうか。原理的に活動することが愛だと思っていたけれども、それは愛ではなく言われた通りに歩まなければはじかれてしまうという不安感、恐怖感が動機ではなかったのか。不安と恐怖である程度自分を奮い立たせることはできる。義務感、使命感の背後にあるものは愛ではなく不安と恐怖だ。しかしその歩みは形だけの歩み、原理という型に嵌められた愛不在の歩みで、復帰基台摂理準備に留まる犠牲ばかりを後天に入った今でも供えている。愛の動機、愛の想いなくしてどうして愛の犠牲を供えることができるだろうか。犠牲だ苦労だと自分を追いつめたとしても、それは愛の犠牲とはならない。人間の尊厳を否定する犠牲、精神を捨てる犠牲は自己否定することではなく、為に生きるという愛の犠牲精神によってのみ霊的高みに飛翔することができる。

2015年10月4日日曜日

今日の想い 884

今年2月の改装は全般的には高評だったが、営業を続けていくうちに具合の悪い箇所もあちこち見えてきた。店の壁に取り付けられたガラスの掲示板もその一つで、見えにくくなったと客からの指摘も多かった。ごちゃごちゃしたものを排して高級感を出そうとしたのだが、メニュー表示の掲示板がお飾りになってしまって本来の役目を果たしていない。黒板に比べればガラスの掲示板はスマートだが、目立たず興味を抱かせるものとして客の目に入ってこない。結局取り外して以前に似た黒板を取り寄せ取り付けることにした。前日に兄弟に取り外してもらい、そのあくる日テーブルの上に伏せられたガラスを移動させようとして事は起こった。キッチンの裏に人が斜に構えてやっと入れるスペースがあるので、取り敢えずそこに保管しようと思い私一人で移動させていたが、もう少しで入り切るとガラスをずらしたその瞬間、パーンと大きな音を立て、2×6フィートある一枚ガラスがものの見事に砕け散った。米粒ぐらいの大きさに粒々に砕けてあたり一面散乱した。手で服についたガラス粒をはたくと痛みを覚え、見ると手の平に血が滲んでいた。ガラス粒の他に砂鉄のような細々とした線状のガラス片が付いていて、手の腹のあちこちに突き刺さっていた。どうもこの厄介な線状ガラス片もそのあたりを覆っているようだ。最初は何が起こったのかわからなかった。それほどガラス板は音と共に一瞬で消え去った。あまりの突然の出来事にしばらく唖然としていた。もちろんこの不可思議な出来事の意味を探り始める。外的な原因ではなく背後の原因を探そうとする。あたかも悪魔がそこにいて、ガラス板の入るのを瞬時に拒んだように思えた、その正体だ。とぐろを巻いて店に居座る何かであり、中心である私の中にも居座る何かだ。昨年の初頭から始まった人手不足、従業員が居付かない問題、売り上げの下降、そして最近頻繁に起こる害虫の出現、そんな問題に振り回されて結局この摂理全体に対する意識を殺がれてしまっている。店の営業に汲々としているからだ。摂理の進展を阻害する何かが居座っている。本来なら摂理的なビジネスなので二世達を巻き込んで内外共に投入すべきなのに、現実顔を背かれている。他の店のあるマネージャーは私達の宣伝不足、広報不足だと言う。中心者は私達の意識の狭量さを指摘する。しかし何を言われても、どう責められても、明日の営業のことで手一杯なのが現状だ。ガラス板がものの見事に粉砕されたように、何かの引き金で一瞬で当てにしていたものが崩れ去る。その気分に留まる限りはそれまでだが、それを超えた発展感情をどういったイメージに持っていくのか。八方塞の今こそ霊界が注視し、天の運勢も味方せざるを得ない本領発揮の時と見るべきだ。

今日の想い 883(意志のない鶏)

子供の頃、田舎の家で鶏を5羽ほど飼っていた。でも卵を産み始めてから立て続けに蛇に喰われてしまった。どんなに防御しようにも隙間だらけのあばら家では仕方なかった。家の中の垂木にすら横たわっている蛇がいたくらいだからどうしようもない。鶏は卵を産み続けるうちは人に大切にされる。しかしそのうちに鶏が卵を産み続けることを人は当然とみてしまう。鶏はある時から卵が産めなくなることを知らないが、人は知っている。知ってはいるが無視したまま当然のこととして卵を収穫する。そうしてそのある時X-DAYを迎える。その時鶏はどうなるのか、人はどうなるのか。意志のない鶏はその運命を人に預ける。意志のある人は鶏の価値をどう見てきたかによって鶏の運命を決定する。殺すも生かすも人の価値判断に因っている。与える鶏と受け取る人の関係は、意志を持たない存在と意志を持つ存在との関係だが、意志を持つ人間は意志をもたない鶏の意志をも受け持つ責任を負っている。そうでなければ収穫し食べるはしから負債を溜め込む。あらゆる万物と人間との関係は、意志を持たない万物の全ての意志を引き受ける責任を負っている。卵をひたすら収穫してきた人は鶏の意志や想いも自分の意志や想いに加えるべきだ。私達は万物のみならず多大な心魂の供与も受け続けている。そこには万物や環境や先祖達の犠牲の、あらゆる意志や想いを代弁する私にならなければ彼等は讒訴するだろう。意志を持たない彼等の讒訴は、ときに意志を持つ人間の讒訴とは異なり容赦ない。自然災害の多大な影響や感染によるパンデミックは意志を持たない存在の讒訴の表現だ。万物に対する感謝は万物を擬人化させて感謝するのではなく、正しく万物を主管することが万物への感謝だ。万物は正しく犠牲になれるように創造されている。卵は食べられることだけがその創造目的なのかどうか。あらゆる可能性が秘められていて、それを引き出すことで浮かばれる。すなわち正しく犠牲になれるよう導くことができる。私達は仮にも万物の主管主として、秘められた万物の可能性を一つでも二つでも聞き出せないだろうか。原理を通して万物に対する人間の位置を知った者として、この世の人々よりもその可能性を聞き出せないだろうか。私達はどれだけ罪を犯さないように生きるとしても、生きて地上に歩む以上何某かの犠牲の上に生きている。日本は献金という卵を産み続けてきた。教会活動にとって日本からの月々の献金は当然になった。しかし或る時X-DAYを迎える。それは日本食口の意志かも知れないし、あるいは意志に反して起こる自然の讒訴としてかも知れない。私達が万物の可能性を引き出せないように、教会組織は献金以外の日本の可能性を引き出せずにきた。日本が母の国としての意志が本当にあるのなら、日本食口は声を上げるべきだ。意志をもたない鶏の様に、目をつむったまま教会組織の意志に悉く委ね続けるのは母としての自らの位相を蔑ろにしている。日本の供与してきた全ての犠牲とは言わないが、こと献金という犠牲の供与に対しては、意志のない鶏として産み続ける卵を収穫する感覚と変わらない。教会もまた、母の国という位相を蔑ろにしている。