2016年3月26日土曜日

今日の想い 914

後天時代ははっきり言って実績主義だ。実績のない者は淘汰される。御父様と御母様と比べて、御父様は激しく怒りもされたけれども、それでも許して全ての負の責任は御父様が取られた。必ず御父様は許されると、当然のようにそれに甘えてしまい、頑張りますと言葉だけで終わらせ結果を残せなかったのは確かだ。しかし御母様は違う。結果として残せないことを指摘はされても大きく感情に表されることはないだろう。しかしその者に対しての摂理は成長を待たず諦められるだろう。責任を果たし結果を残す者に焦点をあてられる。時が急がれているからだ。御自身の年齢も踏まえられ一刻の猶予もないことを知っておられるからだ。だからこぼれていく者に情をかけている余裕などない。それは人間的に判断するなら冷たい厳しい御母様かも知れない。しかしそれもまた甘え体質にどっぷり漬かった私達を変えようとされる御母様の愛だ。また御母様は多くを語られない。御父様が生涯をかけて語られたのであり、それでみ言葉は十分すぎることを御存じだ。重複して語られる必要もないし、語って一方的に受け取らせても眠りこけるのが落ちで(内的な意味で、、)食口はその有難味さえ覚えないだろう。御父様が残されたみ言葉があるのだから能動的に求めれば受け取れる。その方が身にもなる。み言葉を勉強すれば何をすべきかは明らかであり、敢えてこうしなさいああしなさいと口元にまで匙(さじ)を差し出す必要はない。今に至って何をすべきかわからないという者は放って置くしかない。そんな者に構っている余裕はない。そのように御母様は私達の能動的な姿勢を願われている。だから後天時代は実績主義だ。しかし実績をもたらそうとすれば内的霊的条件が満たされなければ実績を見ないことは当然で、確かな正しい動機を備えてこその実績主義だ。その意味でも天国は激しく奪われている。天の父母様が受け取られる実績を残す者によって奪い取られている。実績を残す者が私達が線引きしている食口らしき食口だとは限らない。祝福中心家庭が手をこまねいているうちに、意外なところから実績を差し出す者が出てくるかも知れない。

2016年3月25日金曜日

今日の想い 913

統一食口社会が今の状態になるこれまでの経緯や、それぞれの間の遣り取りやらを見てきながら、殆どの食口はもはやこんないがみ合いは、お互いの足を引っ張りこそすれ、摂理を進めていく上で何の役にも立たないことがわかってきたはずだ。分かれたなら分かれたなりに如何にそれぞれ摂理を進めるかに邁進した方がいい。分かれていても摂理への推進熱がある以上それぞれの基準なりに霊界の協助も天の計らいもあるはずだ。2016年という年霊がどのように私達の意識に働き、どの部分に熱がもたらされ、そして気の風がどう吹いているのか、、。世界情勢はメディアによって選択され色付けされた情報なのでそのフィルターを外さなければ見えるものも見えてこない。祝福家庭として御父様の霊の一端を私の中に見るのであれば、世間の誰よりも2016年の年霊の本質を理解していなければならない。み言葉を語って感化させるのも大切だが、彼等が大きく頷くほどに世の動きの見通しを明確にし正しく未来予言する私を証することで彼等は私達に一目置くようになる。それができなければ彼等は天の父母が存在することも認めず、私達祝福家庭に天の父母が共にあることも認めない。人類が真の父母に繋がるのは私達祝福家庭次第だというのは霊連世からして当然だという見地に立てば、先ず私達が2016年にどうあるべきかを認識しなければならない。2016年は私達の従属的な受動的信仰を完全に否定し、良心の自由を得る能動的信仰を確立する年だ。それは堕落以後の私から堕落以前の私、開放釈放された私を確立することでもある。その大きな試金石のひとつが御母様の独生女発言であり、この爆弾発言を統一食口社会が混乱している今わざわざ発言されなくてもと思うかも知れないが、混乱混沌の今だからこそ発言されるべくして発言された、それは私達が変わることができる化学反応でいう触媒の働きがその発言にある。それを受け入れれば霊的化学反応を起こし、開放釈放された自我の意識を確立できる。「受け入れる」という言葉を誤解して欲しくないが、闇雲に信じるのは受け入れることではない、、とだけ説明しておく。それは触媒が同様には働かないからそれ以上は説明できないのであり、二次的なもの三次的なものを踏まえながら変化させていく者も出てくるからだ。基元節を超えた御母様は先天時代の御母様とは異なる存在であり、神様の一人娘(独生女)であり、さらには神様の相対であることから天地父母が立ったのであり、それ故に開放釈放された自我は私の中で意識を確立できる。混沌の中で多くの者は流されていき、新しい自我意識を確立した者だけが摂理の願いに応えるべく生き残っていく。先天時代の御母様ではなく、基元節を超えた異なる位相に立たれる御母様が私とどういう関係にあるのか、、。内的にも心情的にも切っても切れない自分だという実感がない者は後天時代に入りながらも後天時代には生きていないし、開放釈放された自我の意識が芽生えてもいない。それは言葉を変えると第四次アダム心情圏に入っていない自分だということだ。

2016年3月22日火曜日

今日の想い 912

二人のイエス様がいたように、二人の御父様(龍明と鮮明)がおられたのであり、そして二人の御母様もおられた。一つになられることでイエス様も御父様も、そして御母様も立たれたように、私が立つ為には私の中の二つの存在が一つになる必要がある。心と体という二つの存在が一つになる必要がある。心と体の戦いの場は天でもなく地でもない。心魂という私の内面が戦いの場だった。心に表象されるアベル存在が一方で声を発し、体に表象されるカイン存在が一方で声を発する。全てが主体対象関係によって存在しているように、私の中の主体対象関係を正しいものにすることが私の存在を決定する。一体化とは神様を中心とした一体化であり関係性を正しくしてこその一体化だ。二人のイエス様については何度か述べたが、多くの者はそれを物理的地上的に捉えようとするからあり得ないことだと受付もしない。しかしそこに神様の独り子が霊肉の実体として地上に現れるには聖別されてきた血統(血統とは霊肉によるもの)だけではなく、縦的な天の血統がスパークしなければ現れることはできない。天地父母からのものと天宙父母からのものが垂直の位置で交わる時があって田舎者のナザレのイエスから神の独り子イエスとなられた。同じ肉体を着てても違う存在であることに母マリヤは戸惑い次第に摂理の願いからずれていく。同じように忠母様も龍明とばかり思っている存在が鮮明という異なる存在になられ戸惑われた。その最も代表的なエピソードとして興南収容所の御父様を訪ねていかれた時のご様子を私達は知っている。御母様の独生女発言に対しても多くの食口が戸惑いを隠せない。しかし私達は過去のイメージの御母様に捕らわれることなく、天がスパークした異なる御母様であることを受け入れなければ御母様を中心とした新しい摂理に本流として参画することはできない。それは御母様に従うことを善しとした者達であっても同様で、それだけで摂理の本流になれるのではなく、位相を上げられた御母様に全く新しい御母様を見、御母様に新たな希望の光を見、その光に貫かれて自分も180度変わっていくのを見なければ勝利圏を相続した祝福家庭とは言えない。

今日の想い 911

全てに時がある。アダムとエバは時ならぬ時に時の行為によって堕落した。よって時の時に時の行動をすべきなのが復帰され内外の次元を高める私であり、その為には今の今がどういう時なのかを悟らなければならない。主管すべきは私自身だと思っているが、それはその通りだけれども、時に主管された私を解放すべきであり時を主管しなければ私は変わらない。変わり目として次元移動できる時の揺らぎを捕らえる、すなわち潮目を見ることができる私になるにはどうするか。アダムとエバにとって堕落の時期は大きな潮目だった。愛の試練を乗り越える潮目だった。乗り越えて愛の勝利を勝ち取ればアダムとエバは完成期へと次元移動できた。アダムとエバの愛の試練は当事者にとっては愛の危機だ。時空の隙間は試練の時であり試練の時は現実的には危機状態だ。今統一食口社会は危機状態にある。個人の信仰に於いても家庭に於いても、そうなれば氏族復帰をしていく上に於いても、もちろん教会も家庭連合になりはしたが教会の柵(しがらみ)を引き摺り続けて危機状態にある。この状態をどう乗り越えるか。それは絶対信仰、絶対愛、絶対服従しかない。理解できる説明を求めている限りは乗り越えることなどできない。家庭連合に留まるかグループ派かサンクチュアリ派か、どこかに着こうとするから理解できる説明を求めてしまう。納得する説明を求める以前に求めるものがあるはずだ。それは自分の良心(神)の願いだ。その良心(神)に天の父母様は現れるのであり良心に絶対信仰を立てること=天の父母様への絶対信仰だ。全てに時がある。今は天宙の一大変革期にある。よって人類一人残らず変革せざるを得ない。誰に従うか、グループ派に従った者、サンクチュアリに移籍する者、彼らを詮索する意味などない。彼等の良心がどう働いているのか、本当に良心の声に従っているのかなど当人にしかわからないからだ。サタン的な霊的活動故に分かれているのか、それとも神様の作戦によって分かれているのかわからないからだ。先天時代はサタンとの戦いだった。後天時代は誰がより天を愛し御父母様を愛するかという愛の戦いだ。彼等がサタン的だと思えるとしたら、それは相変わらず先天時代の認識によってそうなっていると思う。天の父母としての心情を思えば彼等のために祈りこそすれ敵愾心を覚えるのは違うとは思うが、しかしそんなことよりも、先行き短い今、自分の良心の願いに応え有終の美を飾る統一信仰の結果を残すのに忙しくてそれどころではない。私は論議のままで地上を終えるなら、これほどもったいない話はないと思っている。全てに時がある。今は実りを刈り入れる時だ。収穫時に御託を並べていれば誰か別の人が実りを刈り入れる。外的にもそうであり内的霊的にもそうだ。先の者が後になり後の者が先になる。天国は激しく奪われている。誰から、、?そう、私達統一食口から、、。

2016年3月20日日曜日

今日の想い 910

2001年1月13日神様王権即位式、そして2013年1月13日基元節、このふたつに共通するのが13数で、日の段階に於ける13数から年の段階に於ける13数へとステップアップしている。しかし前者は陽暦であり後者は陰暦だ。2010年に天暦を提示されて陰暦陽暦を用いるようになったが主体の陰暦には陽暦にはない閏月が同じ月を重ねる形で出現する。これによって日の13数と年の13数の間に月の13数が組み込まれたことになる。天暦を提示された頃に霊連世というお話をされ、神様霊連世協会が私達が中心にして進むべき団体名称だと話された。霊は霊界、連は連合、世は世の中で、霊界と肉界がひとつになって神様の家庭と国と世界、そして宇宙にならなければならない。すなわち霊界と世の中を連合が結ばなければならない。連合が意味するところは家庭連合であることは当然で、統一教会から家庭連合へとその名前が変わっただけではなくその意味するところを良くわからなければ霊界と肉界が一つになる道は遠ざかる。私達の意識改革が早急に願われており、その改革の度合いに応じて実体の天一国は実現されていくはずだ。神様霊連世協会は天地父母協会であるとも言われた。今や神様が主人となり、神様が父母となる真の父母を中心として天地父母協会になる。神様が王権に推戴されても主人とならなければならないと御父様は話されており、それが地上の主人となる天地父母であり天地父母の布告出発D-DAYが基元節ということだろうか。しかし霊世ではなく霊連世となっているのは明らかに連合を介してということであり、連合を無視して霊世が軸として立つわけではない。そう理解すれば天地父母にとって家庭連合が重要であり、家庭連合なくして天地父母は立たないとも言えるのではないだろうか。日があって年があるのではなく、日があり月があり年がある。陰暦を主体とする天暦、閏月である13数を踏まえて新たな年経緯が立つ。陽暦は創造する神、唯一神という被造された位置から見る神概念に立っており、陰暦は創造する位置からの神様御自身の概念に立っている。原理講論は前者であり本体論は後者、唯一神創造神天の御父様は前者であり、夜昼の神様ならびに天宙父母天地父母は後者となる。陽暦は陰暦を否定するものではなく陰暦も陽暦を否定するものではない。主体対象関係はあくまで相対関係であり主体が上に留まらず対象が上になり主体が下にもなる。上意下達意識に固まったピラミッド組織的意識から先ず脱する必要がある。特に日本食口はそうだ。しかし意識改革はあくまでも組織を抜け出して為されるのではなく、組織の中にいてこそ改革ができる。ここまで言ったからには私の思うところを述べると、日本食口は是非とも日本国外の拠点も持つべきだ。日本の中に居続けながらの意識改革はなかなか難しいだろう。日本食口が世界に出て行ってこそ御父母様の内的霊的勝利圏は世界に根付くはずだ。日本に留まり続ければ居場所を見つけられず根付く前に腐ってしまうかも知れない。組織を捨てるのではない。故郷を捨てるのではない。新たな拠点を持つことで願われる家庭連合となれるだろうし氏族復帰に道を見出せる故郷に錦を飾ることもできるはずだ。そうなって形に見えてくると霊連世が軸となるという実感が伴うだろうが、しかしそれが人任せ成り行き任せでは自分が軸にはなれない。私が13数に立つためには先ず3数が必要で4数に立ち、3数が対象を立てて7数、自分の対象も含めて8数に立ち、3数それぞれが4数を立てれば12数で13数に立つことができる。その数理の実体圏を生きて地上で立てようとすれば移動も視野に入れるべきだ。

2016年3月12日土曜日

今日の想い 909

五感では感じ得ない存在を認識する場合であっても、五感から受け取る個々の情報を総合的に捉えて全体像を認識するのと同じで、霊的五感による情報を総合的に捉えながら霊的存在の全体像を認識していく。私達食口は神様という存在を全く否定しないだろう。存在されて当然だと認識している。それは五感から受け取った情報からではなく霊的情報、それは聖書も含めてみ言葉情報からくる霊的情報なのだが、それを総合的に捉えて神様の全体像を認識している。ここで厄介なのは人間が霊的無知であり霊的五感が啓発されていないにもかかわらず、み言葉という霊的情報で把握しているために霊的感性による実感的内容は将来的に受け取れるという信仰を否定してしまえばその認識は一変に霧散してしまうということだ。霊的認識のほとんどは信仰生活が長いとしても未だに信仰を土台にしたままだ。天の父母様という新たな概念を御父母様は私達に提示された。その概念を今の自分は理解できないというのは当然なのかも知れないが、それは有り得ないと否定してしまうのは実に愚かな判断だ。御母様はどうも霊的に見えていないと、御母様を霊能者の力あるないの基準で測ってしまうという愚かさ、霊的無知にもほどがある。霊能者の位相とははるかに異なる御母様の位相を地上という平面基準で捉えることの大きな間違いが全く分かっていない。地上は一つの次元ではあるけれども霊界は多次元にわたっている。霊能者が霊的に見える次元と同じ霊的次元におられる御父母様ではない。霊界が一つの次元のみであるなら霊能者によって救われるはずであり真の父母など必要ない。結局は霊的事柄の何一つ分かってはいないらしい。そんな程度で霊界に移籍すれば大混乱の自分を見ることになる。唯物主義者のように霊界などないと結論付けて肉体を脱げばその認識故に霊界にすら入れず、地上にしがみつく為に最大恐怖の体験である死を限りなく実体験し続ける幽界をお化けとして彷徨うことになるが、霊界の実情を知らないにもかかわらず自分が勝手に思い込んだ霊界認識のまま肉体を脱げば、真の愛の救いの光の届かない薄暗闇で御父様をひたすら探しまわることになる。限定的霊界認識は極めて限定的な救いにしか与れない。肉体を脱いでしまって信仰を立て直すことなどできないからだ。み言葉を理解しているという驕りを捨てて御母様の言葉を信仰として捉え理解できるよう内的努力を試みるべきだ。天の父母様がおかしいと御母様を否定する前に、御父様の夜の神様、昼の神様は当然理解しておられるのかどうか、、。それも理解できないのであれば御父様をも当然否定すべきだがそうは思えない。ならば理解できない論理故に御母様を否定しているのではなく感情で既に否定している。

2016年3月9日水曜日

今日の想い 908

人は誰も現実と理想の狭間で生きている。理想実現への信仰が弱ければ地に足を埋めて身動きできなくなる。逆に信仰が強ければより理想へと足場を進める。足を埋めて身動きできなくなるのは良くないが、しかし足はしっかりと大地を踏みしめるべきでそれでこそ理想への階段をステップアップできる。抱いている理想が現実逃避によるものだとそれは理想ではなく仮想翼を持たせた妄想に近い。精神は翼を持っているけれども心魂は持っていない。理想に向かう段階的目標をクリアしていく以外ない。理想と妄想が全く異なるものであるように、信仰と現実逃避を見分けなければならない。堕落性の厄介なところは信仰だと自分に言い聞かせながら実のところ現実逃避している場合が往々にしてあることだ。信仰は実を結ぶけれども現実逃避は実を結ばない。信仰生活しているといいながら実を結ばないのであればそれは現実逃避ではないかと一度立ち止まるべきだ。現実に主管されるのではなく現実を踏まえて主管するには現実と理想をしっかりと両の手で捕まえておく。それは私という存在が現実と理想の架け橋、現実と理想の仲保となることであり、具体的には現実に対して喜びを得られる理想への衝動を捕らえ、一方で現実的実りを理想への供犠として差し出せるものを見出していく作業が必要になる。それが「現実に流される」から「現実を踏まえる」への転換点になる。御父母様が勝利宣布宣言を為されながら真の父母としての使命を全うされたことは、天と地の架け橋になられて、現実である堕落圏の地上に人間本来の喜びである天の創造理想を差し出してこられたと表現することもできる。であれば私は現実的実りを理想に対する供犠として差し出すのがカインの正道だ。それを御父様が分かりやすく説明して下さったのが報告祈祷だ。供える現実的実りがなければ報告祈祷はできない。しかしその為には理想が私の理想として衝動を覚え続けることが必要で、み言葉訓読しながら衝動を覚える熱を私の中に見なければならない。私が燃えているかどうかだ。御父母様が差し出してくださった理想に対してほぼ理解していないのは霊的無知だから当然といえば当然なのだが、勝手な認識で妄想的に捉えたままだと熱するのも早かったが冷めるのも早く、理想はますます遠のいていく。私という現実と理想の架け橋を分断することになる。

2016年3月6日日曜日

今日の想い 907

御聖和されてから摂理がどう動いているのかわからず中途半端なまま浮いている。もちろん御存命の間も摂理の動きをはっきり捉えていたわけではないが、それでも御父様主管のもとで摂理に立っているという認識があり自負もあった。新たな摂理的内容が御父様の口から出てそれに応えようとすれば、それに合わせるために人材もお金も投入せざるを得ない。自ずとそれまで立てようとしていた外的基盤の到着地点は遠のいていく。日本は確かに先天時代、内的霊的な基盤を立てるためであって外的な基盤が優先されたわけではない。日本に比べればアメリカは緩いところがあって日本のように鶏の首を絞めてまでノルマを追求し霊的基盤を立てるということはなかった。しかも外的基盤の多くはここアメリカに投入されてきた。だからそれなりの外的基盤はあった。しかしながら築いてきた財産の殆どはUCIに持っていかれた格好になってしまい思惑とは違った状況になっている。TWもその一つでありアメリカの外的基盤だったが今はUCI下にある。レストランは日本のミッションのアメリカ支部のような立場で、外的基盤を立てることより献金に重点が置かれた為に日本に近い内的霊的基盤を担当したと言えるかもしれない。UCIは外的基盤のないレストランに目もくれなかった。最初はレストラン摂理として出発したのだが、還故郷の摂理からは一転して外的な主要摂理から外されていったからだ。しかしUCIの問題で外的基盤であるTWは失ってしまい、外的基盤とは言えないレストランだけが数件残っている。TWは見せて誇れる教会の事業体ではあったが海洋摂理全体の観点からはどうだったのだろうか。流通やレストランも含めた小売だけが海洋摂理ではなく、いやそれらは海洋摂理の為の基盤に過ぎず、その基盤から魚の養殖や海を制する本格的な海洋摂理へと向かうべきではなかったのか。要するに水産卸し業やシーフードレストランは復帰摂理でいえば復帰基台摂理に当たる。海洋摂理に対する全体像を把握しておられた御父様がおられるのであれば、御父様主管のもと私達は売り上げ倍増だ他店舗展開だと基台摂理部分に拳を上げていれば良かったのだろうが、しかし全てを私達に任せられて御聖和された今、このままの状態で突き進んでもどうも闇雲感は否めない。摂理観が明確でなくてどうして天運が共にあると言えるだろうか。