2018年8月23日木曜日

今日の想い 997

ある食口の氏族復帰の証を聞きながら感じたことは、ああなんと彼の氏族は彼の純真な思いを尊いと思えるほどに純粋な氏族なんだという羨望だった。今までも親や兄弟が復帰されているという食口には何人か会ったことがあるが、本人がそうであるように、親や兄弟にも人を疑わない純粋さが見て取れた。でもある先輩家庭の氏族復帰は様相が違っていた。御父母様に繋ぐというよりはその先輩のカリスマ性ゆえにその先輩を仰ぎ見ることで繋がっていた。最終的には御父母様に繋げるとしても、その氏族は純粋な者達の集まりとは異なっていた。またある先生のように、口を開けばみ言葉が滔々と流れ出し、そんな先生を氏族メシヤとして受け入れるのはおそらくアカデミックな氏族の集まりに違いない。これは私の推測の域で私以外は首を傾げるのかも知れないが、私は氏族がメシヤとしてもっとも受け入れる者だから立っているというこの仮説はきっと正しいはずで、そうなると氏族復帰という考え方自体を今の氏族復帰のイメージから変えたほうがいいかも知れない。自分が氏族メシヤだと認識する者であれば、氏族の血に流れ自分の血にも流れている共通の或る性質をわかったうえで氏族復帰の在り方を問う必要がある。運勢の相続だと言いながら他の食口と同じように行動しても実を結ばない可能性があるということだ。カイン圏の復帰の為にスモールグループという方針を立てられたことがあったが、要するに自分の得意とする分野や趣味のグループを作って伝道の為の基盤とするわけで、自分のカイン圏の基盤をそうするように氏族圏の基盤はみ言葉伝道を直球で投げるのではなく、それぞれの氏族に合った復帰戦略があるはずだと思う。おそらくそんな戦略はアベル追随の教会一辺倒思考では出てこないだろうから、その意味で中心性に問題がある今の教会でこそ氏族復帰の芽が出てくるというものだ。天の願いは、それは良心の願いと言い換えてもいいが、流れとしては食口の主体性復帰と能動的行動を後押しする方向へと向かい、その潮流はますます早く強くなっていく。

2018年8月12日日曜日

今日の想い 996

four..
結局は誰かが責任を取らなければならない。摂理として失敗した立ち並ぶ墓石の責任も誰かが取らなければならない。御父様に取らせておいて、口先だけで申し訳ありませんと唱えていればいいというものではないだろう。何とか営業し続けていれば目標に向かっていると言い訳でき、結果責任は先延ばしできるのかも知れない。でも私は、既に結果は明白なのに責められることを嫌い、言い訳のための体裁づくりに動き続けるのは飽き飽きしてしまった。誤魔化している事実は自分の良心が一番よく知っている。会社による資金提供という名の献金は何ミリオンとやってきた。提供せずに自分の責任で店舗展開や新ビジネスを立ち上げていたらどうなっていただろうか。出すだけ出したらそれで責任を移譲したのではなく、誰も責任を取らなければ無暗に出した責任として自分に向かって問われることになる。頂点である本部の決定事項は公的責任をクリアしていると信じたいけれども、たとえ本部であろうと所属する人、結局は人によって決められ、お金は投資したり使われたりする。作った側のお金の意味と重さに比べ、どれほどの汗水を流したか知らない使う側のお金の扱いは自ずと違ってくる。お金に変わった現場の精誠は、本部の決定の下にいとも簡単に使われて流される。本部にとっての現場から搾り取ったお金は、只の数字であってそれ以上の扱いは受けない。何万ドル何十万ドルが一瞬で消えても、申し訳ないの一言で済まされる。責任を取ると公言したのなら、指の一本でもつめてほしかった。せめて土下座でもしてほしかった。失敗した責任を誰が取るのか。誰も責任を取らないのであれば、渡した側の私が責任を取らなければならない。御父様が聖和されて、摂理を担い歩んできた食口達は、一度総括しなければならない。総括して負の責任の一つ一つの所在を明らかにして責任をしっかり取らなければならない。過去は忘れ去ったかのように、信仰だ原理だと大手を振るって生きるとしても、為し得なかった摂理に対する蕩減が霊的におぶさっている。食口の誰もが、特に責任者と言われた者達は、認識するしないにかかわらず霊的重荷を背負っている。蕩減の話をするなら当然のことで食口皆背中をまげて下を向いて歩くべきだ。罪の一つもないかのように、過去の失敗した摂理に絡んでいる自分を忘れて、誰が悪い彼が悪いとどの口さげて言い放つのか。

今日の想い 995

three..
外的に進めると同時に本部との交渉も放ってはおけなかった。責任者が一人いるだけでレームダック状態(怒られるかもしれないが、、)で人事ができるわけでも人を送れるわけでもなく経営に関してはほぼ任せきり、当然現場責任者が全責任を負ってしまっているのでお伺いを立て許可を得る意味は儀式的なものでしかないのだが、それでも中心として立てる。本来は売却の決意をした時点で報告し許可を得るのが筋だというのはわかっていたが、敢えてある段階まで話が進むまでは黙っていた。ブローカーを探してリストに上げてもまだ黙っていたし、バイヤーが見つかってもまだ黙っていた。実は私の性格上、ある段階、駄目だと言われても引けない段階まで行かなければ優柔不断でそうですかで引き下がってしまう自分をよく知っているので、敢えてその段階まで黙っていた。そうして許可を得るためにいよいよ連絡したのは仮契約の日時の数日前だった。説明は長すぎず短すぎず、要点を整理してどうして売却が必要なのか、どうして今なのか、そのまま営業すればどうなるのか、リースはいくら残っているのか、そして最後に話の中では告げないようにした売値を言おうと、しっかり準備して電話した。説明の後に仮契約が三日先なのでそれまでに返事を下さいというつもりだったのだが、意外なことにその連絡の電話口でOKが出た。携帯の連絡先を見つめては消し、見つめては消しを何度か繰り返して、やっとの想いで電話したが、報告してみると意外と呆気なかった。その前の晩はさすがに眠れなかったので一気に体の力が抜けて椅子にしな垂れた。しかし本当の戦いはOKが出てからだった。ランドロードとの交渉、バイヤーとの交渉、ああ言えばこう来るだろう、こう言えばどうなるだろうか、言葉のやり取りを一晩中考え続ける日々が続いた。売れた後で全体ミーティングがあったのだが、その時の他のマネージャーの意見や感想は様々だった。よく売ったと喜んでくれる者やら、よく売れたねと関心する者やら、売るという選択もあるんだという者やら、中には店舗数の目標に向けて頑張っているのに納得できないと声を荒げる者もいた。

今日の想い 994

two..
売却という結論を出しはしたが、超えなければならないハードルは高くて幾重にも続いていた。外的なことを言えば先ず信頼の於ける不動産エージェント、住宅の売買とは違うのでコマーシャル、特にレストランビジネスに特化したブローカーを探し出す必要がある。売買成立はこのブローカーの本気モードに拠るところ大だ。と同時にランドロード(大家)とのネゴシエーション、売買契約は成立してもランドロードがOKと言わない限り契約は水の泡であり、バイヤーの資産状況から経営能力と経験、彼の背景と人柄等々、ランドロードが細かく調べてOKを出すが、それ以前の事として一体どんな店舗を入れたいのかというランドロードの希望に叶わなければ話を進めても意味がない。もちろんバイヤーが今の店を引き継いでやっていけるのかもこちらはこちらで見通しておかなければ、リースの契約書上もし中途で投げ出されでもしたら責任の全てはこちらが負うことになってしまう。主要な従業員が辞めてしまって引継ぎがうまくいかないという問題もあるので、そこの手配もしっかりしておく必要がある。ブローカーはユダヤ系、中国系、韓国系といるが今の店の雰囲気や経営スタイル、需要から言えばチャイニーズが望む業態だろうから当然中国系のブローカーで、その選択には迷いはなかった。やはり問題はランドロードとの交渉で、この事案に関してのやり取りの量は過去30年のやり取りの量を足してもその何倍にもなった。最初はブローカー任せだったがやはり長年付き合ってきたテナントとして私が交渉しなければ何も始まらないことに気付いた。オフィスにもアポイントを取って何度も足を運んだ。向こうが遠ざけておきたい様子でもとにかく足を運んだ。向こうにすれば押しかけられたと思ったに違いない。しかし30年を超えて高いレント料を払い続けてきた功績は認めているはずで、押しかけるぐらいでも話は聞いてもらえる確信はあった。ブローカーに店舗売りのリストに上げてもらって一年くらい経った頃、関心のあるバイヤーが同時に二人、というか2団体現れて、それからの半年間今までに経験したことのない緊張感の路程を手探りで進めていった。ランドロードも許可を即決してくれて、仮契約して直ぐにでも本契約に入れれば一番いいのだが、長引いていけばいくほどバイヤーには良くない情報も入ってくるしやる気も失せてくる。正直なところランドロードが乗り気でないためにバイヤーも諦めムードで、私自身も諦めかけていた。しかしダメもとで最後の最後に陳情しに行ったことで本気度がやっと相手に伝わって歯車は動き始めた。

2018年8月11日土曜日

今日の想い 993

one..
現実が襲い掛かる現場では、人材不足以前に人手不足に振り回される。手足となって動いてくれる従業員は年中欠けていて、マネージャーとは名ばかりで実際は穴埋めに奔走する毎日だった。今日の営業を回すので精一杯でマネージャーとして店を切り盛りする状態にもなかった。これがレストランの現実だ。その現実にどう対処し、どう結論をだしたか、、。人手不足を補うために一世にも二世にも声をかけ、対面で話す機会があればレストラン摂理の重要性を一生懸命説いた。一応頷いて聞いてくれはするけれども、どうも打てど響かずで殆んど素通り状態だった。私の食口に対する不信感は募るばかりだった。彼らの言い分は時間的に合わないとか、夜遅くまで勤めたら家族に接する時間がなくなるとか、いくらか正直な食口であれば体力的に自信がないとか、接客業には向いていないとか、もっと楽に稼ぎたいとかだったが、そんな断り文句のオンパレードだった。要するに生活が主体でそれが彼等の最重要課題であり、レストランに対する摂理云々とまではいかずとも、せめて内的にも外的にも成長したいという意志を持っている食口はと探したが、結局会えなかった。外的なことからだけでも、例えば大金持ちになりたいとか、店のオーナーになりたいとか、しかしそんな欲を持っている食口でさえとんと会えなかった。みんな祝福を受けた時点で終わっているなと思った。生きた熱のある食口はいなかった。後継者不足に頭を抱えている本部は、二世が入りたいと思えるような事業組織に変えていくべきだと、しかしそれが具体的には何を指しているのかずっとわからないままだった。そんな中、やっとの思いで一人の二世を迎えることができた。1年間レストランで勉強したいという期限付きだったが、それでも成長したいという意志を持っていることに喜んだ。自分の取り分を抑えてまでも給料はしっかり払ったし、ミーティングも毎週持ちながら、ここで歩むことへの内的霊的意味を伝え続けた。やる気さえあれば店を任せるし、一生懸命貯めてきたキャッシュをどう使うかも任せようと思った。私の彼への入れ込みを見て、30年勤め上げたきたフロアマネジャーはいい顔はしなかった。当然だろう。しかしそんなギクシャクがあっても私は彼に期待し続けた。でも彼は1年であっさり辞めた。ひとつは祝福の問題もあったが、彼のやりたい仕事ではないという結論だった。私はひとしきり落ち込み、そして悩んだ挙句に、店を手放す決意を固めた。先行きわからない大家とのリースの問題も確かにあったが、人材不足、引き継ぐ誰も見つからないという現実に私は私で結論を出さなければならなかった。それはこの店を売却するという結論だった。

2018年8月10日金曜日

今日の想い 992(固定認識を先ずとくこと)

同じ言葉でも人それぞれ理解と認識は異なっているし、異なっているから人はそれぞれ個性真理体として地上で独立している。しかし異なっていれば一つになれないかというとそうではなく、統一は融合ではなく統合であって、方向性を同じにすることで一つになれる。言葉の理解の方向性を同じにすることでその言葉の一つの概念にたどり着く。神様、霊界、救い等という目に見えるでもない多分に信仰を前提にした言葉は、神なら神の定義をどれほど積み重ねても正しい概念には至らない。要するに定義できる範疇にない言葉だ。食口であれば神様の存在、霊界の存在、救いのあるなしを当然のこととし、更にイメージとして固定認識までしてしまっているけれども、神様は存在するのかどうかとか、いるとすればどういう存在だろうかとか問い続ける人のほうが存在すると決めつけて固定認識している食口より正しい概念への道を辿っている。固定認識してしまうとどうしても教条主義的になるし、唯物主義的になる。御父様がメシヤであるとか、今度は御母様こそがメシヤだとか、イメージまでして固定化してしまった数々の原理認識によって、口にされた言葉を理解しようとするものだから間違いの上に間違いを重ねてしまう。メシヤという言葉を私は本当に理解しているのだろうかという問いが前提にあり、理解したいという意志を持ち、暫定的であり仮定的な今の認識を否定してみる嫌悪な感情も受け入れ、その上で御父様が語られた言葉、御母様が話された見解を良心の鏡に映しだしてみる。そこまでの内的霊的作業は面倒くさいからか投げ出して、実に唯物的で平面的な原理観という名の論理で判断してしまう、いや裁いてしまう。共産主義者と同じように、頭ばかり膨らんだ食口が如何に多いことか。メシヤかどうかはあなたが決定するものでもないし、あなたが判断するものでもない。しかしあなたが救いが必要な存在かどうかはあなたしかわからない。その救いへの渇望に対してメシヤであるかどうかの論理は役に立たない。

2018年8月8日水曜日

今日の想い 991(ドルと元)

米中間の貿易戦争が激しさを増している。単純に考えればアメリカから中国への輸入量に比べ、中国からアメリカへの輸入量が圧倒的に多いので、中国がどれだけ後追いで関税をかけても中国の負けは当然だ。しかし中国も馬鹿ではないのでアメリカが関税で仕掛けることは随分前からわかっていた。中国が次に打つ一手はアメリカ債権の売りだろう。要するにドルを売って元を買えばドルは下落するのであり、中国が保有しているドル債の売りは、ドルを下落させてドル基軸を揺らすに十分だ。トランプは未だに貿易赤字云々しか頭にないようだがドルが安ければ貿易黒字になって富を得る、というような単純なものではなく、ドルが高いからこそドルが基軸通貨として世界に通じるのであり、高いドル債権を中国も日本も産油国も莫大に買っている。要するに貿易赤字を十分に埋めて余りあるアメリカの金融商品が売れている。未だに気付かないのか、気付いていても関税だと声高に喧嘩を仕掛けるのか、中国がドル債の売りを仕掛けた時の次のトランプの一手が見えないので何とも言えない。確かにトランプはトランプで次の一手は確かにある。それはドルの紙切れ化指示だ。ドル債は今のドル通貨によるものだから、もしトランプがドルをやめてこれから新しい通貨を用いることを決めさえすればドルは紙切れになる。そこまで行かなくても新ドルを発行し、旧ドルと新ドルの交換比を2対1にすれば海外のドル債は半分になってしまう。もちろんその時点で基軸通貨として世界が認証するかどうかは極めて疑わしいが、アメリカ自体はいいとこどりで生き延びることができる。それでも中国はそこまでも見越している。賢いというのか狡賢いというのか、中国を甘く見たらとんだ目に合う。中国元は日本円やアメリカドルのようなハードカレンシーではない。元は世界に通じてはいない。中国は他国との貿易にドルを用いているのであり、元はドルに換算されて(変えられて)取引を行っている。アメリカが覇権国であるのはドルが基軸通貨であることによるが、そのように中国が覇権国として台頭するためには元が基軸通貨に並ぶハードカレンシーになる必要がある。その悲願を成就するためにひたすら準備してきたのが金の産出、金の購入、そして金の国外流出禁止だ。今もっとも金を保有しているのは中国だ。今はドル保有を担保に元の発行が為されているが、中国は時を見て金保有を担保に元を発行するようになる。中国がドル債を売り浴びせて一気にドル下落を見た時か、あるいは旧ドルをやめて新ドルを発行するときか、その時が金兌換の中国元のXday だ。強いドルは強大な戦力が背景にあるのはその通りだが、果たして中国はアメリカとどう交渉するのか。習近平がトランプに耳打ちしたように、太平洋で線を引いて一方をアメリカ、一方を中国にしようと更に踏み込んで話を持ち掛けるのか。しかし日本はアメリカに言われるがまま、中国に押されるがまま、何の準備もしていない。

今日の想い 990(日本的信仰観)

一言で信仰と言っても宗教は山ほどあるし、ある特定の宗教の中でも宗派と呼ばれるものも山ほどあり、更に言えば帰依の違いで信仰観はそれぞれが異なっている。教会の中で宗派と呼ばれるものに今の三分割がなるのかどうかは未だ決められないが、信仰観を大きく分けると韓国的なものと日本的なもの、そしてアメリカ(欧米)的なものに分けられる。日本食口は日本を出て他国で信仰生活した経験がなければ、自分の信仰が日本的な信仰観だという認識も理解もないだろう。日本的信仰にどっぷりつかっているから柔軟性に欠ける固形塊のように、力が加わると壊れるのか耐えられるのか、全てに忠実であるかさもなくば信仰を捨てるか、という二者択一になってしまう。日本食口にとってアメリカの日本食口も、韓国に嫁いだ日本食口も、食口とは言えない信仰観をもっている、と言うより不信仰だとさえ思えるだろう。逆に日本から出た位置で日本食口をみると、実に頑なでガチガチの教条主義で、モノ言えぬロボットのようにもみえてくる。でも御父様は日本食口を忠孝の源として、その信仰観を誉められたし大きく買われて期待された部分でもある。ようするにその信仰観は、教会によって育てられた以上に、日本人が持ち合わせているそもそもの特性が信仰観の土台としてある。その特性故に原理を受け入れ、特性故に摂理を牽引し、特性故の信仰基準を持っている。そしてその特性のひとつは、群れとして集まり群れの中で周囲に合わせようとする性質であり、よって平均的な在り様を瞬時に察知しそこに自分をおいて行動する。原理を受け入れるのは修練会という集められた群れの中で受け入れたのであり、献身した群れの一員として摂理を牽引し、団体生活の中で信仰基準を立ててきた。御父様は日本人のこの特性が日本の霊界に起因するものだということを知っておられたし、御父様が掴まなければ結局邪悪な他の存在が日本人を用いただろう。そんな日本人(日本食口)は群れの中で群れの雰囲気を呼吸しているうちに、いつしか群れから出られない存在になってしまった。日本が次の世代へと運勢を繋いでいくためには群れを牽引する存在が現れなければならないのであり、御父様亡き今、その特性をもっともよく知って牽引できるのは食口以外いないのではないだろうか。御父様は天宙を主管し世界を主管される立場で日本を用いてこられたが、今一歩引いて日本を先ず立て直さなければ世界復帰も何もあったものではないだろう。立て直してからの国家復帰であり崩れ落ちて何を復帰するのだろう。食口の中に憂国の有志が立たなければ何処の誰にこの国の希望を見出せばいいのだろうか。日本食口の信仰観による信仰さえ立てれば、日本は滅びてもいいと本当に思っているのだろうか。

2018年8月5日日曜日

今日の想い 989

食口として先ず捉えるべきは、私が存在するという実感は魂にあるのであって、魂が地上界に肉体の五感をもって入り込んでいるという事実であり、魂が霊界に霊人体の霊的五感をもって入り込むべきという意志だ。この霊と魂と肉の関係を認識しなければ、先天時代に見ていた世界が消え去ろうとし、後天時代に表象化しようとする世界が登壇してくるのを見ることはできない。この世の人達が見るのと同じように歳を取っていく私や問題になっている気象激変や社会モラルの変化、国家間の覇権争い、経済の混沌などを現象として見るに過ぎない。私達は現象をどうこうしようとするのではなく、原因世界を料理すべきなのであり、その権限を与えられている。その権限は銃や兵器を準備するというような現象に対処する意味での権限ではなく、原因世界、すなわち霊界で愛の秩序を立てることであり、それは御父母様が天の血統として私達に相続して下さった心情という愛の基ともいうべきものによって再創造すべきという権限だ。私達は訓練された魂の力をもって、霊的世界に入り込んで天の王宮を建設していく。だから信仰姿勢として心情をたずね続けること、受けた心情による行動意志こそが言い古された愛を超える真の愛だ。心情をしっかり捉えることが受動的な信仰から能動的信仰への転換点であり、それはただの上司から下りてくる上意下達の行動意志とは血統的に異なる。祝福を受けたのであれば心情への糸口は既に受け取っている。祈りながらみ言葉を学びながら行動しながら、糸口を手繰り寄せて心情を受け取ることこそ私達の血統転換であり、アベルの私とカインの私が一体となりながら私の良神を立てる。