2022年8月20日土曜日

今日の想い 1174

 打たれるには打たれる理由がある。打つ理由が正しいかどうかは立場によって異なるので、口を開いたところで言い訳にしかならない。ではどうするか。打たれるときは左の頬を差し出してでも打たれることに没頭する。しかし責めるチャンスは必ず来る。そのチャンスを逃さないために下手に反撃に手を出すべきではない。それがどんな状況で舞い降りるのかはわからないが、今の日本の状況を見れば大体の推察はできる。2000年前、イエス様とその群れは今の教会と同じように反社会的団体だった。イエス様自身が神殿内で暴行を働いたという聖書の記述からしても、決して品行方正な団体ではなかったことが伺える。イエス様もそしてアボジも、当時の社会に合わせていればとは思うのは凡人だからだと言われればそうで、摂理的に切羽詰まった天の理由があると理解するのが食口のあるべき思考には違いない。だから過去をどうこう言っても仕方がない。打つことを許さざるを得なかった天であるなら、しっかりと甘受し受け止めて、必ず与えられる責める機会をしっかり捉えることだ。

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