これほどのバッシングの嵐に襲われながら、私達が危惧すべきことは何だろう。それは教会の弱体化でも、それぞれの信仰が折れそうなことでも、世間の怪訝な視線の中で生き辛くなったことでもなく、そんなことは既に織り込み済みだったはずで、本質的なこと、すなわち神霊によって与えられた私の真の霊が立たないこと、言葉を変えれば良心がへし折られることこそ危惧すべき最大の案件だ。神の摂理に従うこととイメージしていた理想世界を夢見ることとは全く異なる。叩かれるだけ叩かれ、奇異な視線に晒され、イメージしていた真の愛の世界の理想を奪われるこの現実こそ摂理の只中の現実だ。神の摂理は救いの摂理でもあるが、救いの概念を変えなければならないほど摂理は厳しくて当然なのであって、厳しい試練の連続こそ摂理の只中にあることの証しだと捉えて間違いない。できもしない中心の要求に頷き続けていれば自分の中の霊が立ち、霊が育つと思ってきたのだろうか。だから一言の意見も出さず中途半端に中心の要求を受けながら、その結果がカルト呼ばわりされ反日の烙印を押される今の現実を引き寄せたと言われれば返す言葉もないだろう。日本が日教組の左翼思想教育によって平和ボケ民族に成り下がったように、教会は責任者指導者の無責任指導によって自分の考え意見すらない、ただ要求だけに反応する機械人間を作り上げた。良心という中心を否定した絶対服従は機械人間そのものだ。マスコミは信条、信教の自由を蔑ろにしているのはその通りだとしても、数人の知識人がマスコミに対して異を唱えてはいても、私達食口の中から立ち上がり意見する思考も持ち合わせないしその意志すらない。立派に摂理を説き壇上から教えていた先輩責任者や講師はどこで何をしているのか。鶏が三度鳴く前に否定することを恐れてかマスコミに意見するどころか何処かに隠れて存在の影すら消したままだ。この不甲斐ない責任者を戴いて身も心も捧げてきた食口達の恨みは彼等に確実に襲い掛かるだろう。霊を弄び燃え上がらせた火の粉は自分に降りかかるように、食口それぞれが霊の存在であり御言葉の一部を切り取って望まない行動をけし掛け、限界まで自己否定して絞り取った彼等の霊的胆汁はマスコミが燃え上がらせる炎より何倍も恐ろしい。
0 件のコメント:
コメントを投稿