2022年11月28日月曜日

今日の想い 1209

 昨日記したが、私は日本での路程に恨みすら覚える立場かもしれない。最初当時を思い出すだけで吐き気をもよおし、ことある毎に夢にも胸痛い状況が現れて鬱の状態で目が覚めていた。もし霊界で何度も同じ状況が繰り返されるのなら、生きて地獄死んでも地獄だろう。もし洗脳されていて気分も感情もコントロールされていたならどれほど楽だっただろう。しかし実際は反吐が出るほどの苦痛の数々だった。しかしそうなることも自分の意志だった。天国への道は地獄を通過するものだと知っていたからだ。昨日記した記憶も途中で途絶えているように、地獄の底に封印して記憶にも上らない多くの出来事がある。妻は歩みの全てをほぼ覚えていて事ある毎に不平を垂れるが、私はというと開放しているのは喜びの記憶であり平安の記憶だ。それ以外は私の魂からは削除されている。もし霊界に赴いて封印した忌み嫌う記憶の全てを開放するとなると、今の私の人格では処置できる位相や信仰的権威はなく、蕩減なのか霊的役事なのかを済ませる必要がある。それ故に未だ地上に生かされていると言ってもいいかもしれない。食口の中にも清平役事を集金摂理だと非難する者も多くいるが、私にすれば雑霊悪霊というか忌み嫌う記憶というか、 全てとは言わないが多くのコールタール化して漬け込んだ忌み嫌う記憶の数々を整理されて解放された。霊的な感覚を幾らかでも備えていれば清平の恩恵は理解できるはずだ。献金として供えるも役事として受け取るも、主体である本人次第であることは言うまでもない。後に訓母様や御家族がどうなったかどうかは、私の詮索範囲を超えていて探ること自体、供えた献金を俗物化することになり受けた恩恵に唾する行為だ。その態度は全ての中心者に対してもそうだし、御母様に対しても当然のことだ。

今日の想い 1208

降ろされたのは大きな町の外れだった。車が過ぎ去るのを確認し周囲を見渡しはしたが、最初からやる気はなくて、とにかくこの寒さを何とかしたかった。取り敢えず暖を取ろうと、飛び込みはそれからだと言い訳しながら、切り取られて渡された地図にある駅を目指して足を進めた。献身依頼3年を超えて万物復帰続きだった。さすがに疲れていた。もう自分にとって実績を出すことも、言われたとおりに真面目に飛び込むこともどうでも良かった。別に実績がないと祝福に与れない訳ではない。ある期間内に離れずにその場にいることが重要であって、歩むことの忍耐ではなく待つことの忍耐の方を自らに課した。もちろん伝道対象者としての霊の子は必要とされたが、万物復帰の期間に伝道できる訳ではない。だから私にとって何ら重要性は感じなかった。敢えていえば、やめてしまえとしきりに私という存在を否定するキャプテンの仕打ちを受け止める、そのことが祝福の為の条件だとさえ思った。そのキャプテンは大した結果を残さずに帰ってくる私に対して肉体的なものも含めて虐待三昧だった。結果を出さずに帰れば、今日も奴隷主の仕置きが待っている。次第に賑やかになる駅までの道のりを歩きながら、もはやこの道を今引き返さなければ、日が高くなっても決意して飛び込むほどの力のないことは薄々感じていた。それでも駅に向かう足は止まらなかった。飛び込みが死ぬほど嫌だった。本当に死ぬ方が楽だと思った。駅に着くと取り敢えずトイレに駆け込んでしゃがんだまま暖を取った。そのまま眠るともなく浅い眠りをしばらく取ると、既に午後3時をとっくにまわっていた。ありったけの小銭を搔き集めラーメンを食べた。そのままガラス戸越しの人の流れを意識もなく眺め続けた。そうしながらすでに現地まで帰って歩む決意もできないし、しかし実績のないまま回収されることもできなかった。しっかり回収時間を超えて夜の更けるのを待って、駅から少し離れた荒地の駐車場に赴いた。一台一台確認しながら鍵のかかっていない車をひとつ見つけると、その車の後部座席で一晩を過ごした。風は防げるものの冷え切った車内は想像以上に寒く、ひもじくて震えが止まらなくて涙が流れた。その涙だけは妙に暖かいのが切なくて、更に泣けてきた。どういう訳か私の記憶はそこまでだ。朝までそのまま休んだのか、どう連絡入れたのか、さっぱり覚えていない。おそらくそのままブロック本部に上げられて、暫く内務の手伝いをしたのだと思う。でも見切りをつけて帰郷したのは随分後のことであって、その時の話ではない。自己否定どころか人間としての自我さえも否定しなければこの道を歩めなかった。そこまでして勝ち取った祝福であり、たとえ教会が否定されたとしても誰が祝福の価値を地に堕とすとしても、私の祝福は天が認めるし必ずやその証を地に立てて見せる。普通なら自分など教会被害者の部類で青春を返せと叫ぶべきなのだろうか。被害的で悲惨であればあるほど、より祝福を重要視したし信仰を捨てるどころか益々強く持つようになったのは、内的霊的な価値が地上からみれば逆説的だからだ。

2022年11月26日土曜日

今日の想い 1207

 統一食口の本領発揮はまさにこれからだ。国から迫害されてこその信仰であり摂理の牽引者だ。今までの生温い教育期間を経て、この迫害の真っ只中で私達は光る存在になる。光を受けるのではなく光を放つ恒星になる。第四アダムとして一人一人が真の父母となるのであり、それこそが神様と御父母様の願いだ。昼に夜にアボジの食口を奮い立たせる怒号が胸に聞こえる。立て!立ち上がれと、、。おそらく多くの食口は病気かと思うほどの高鳴る胸の鼓動を最近覚えたに違いない。アボジはそうでもして天の心情に応えて欲しいという切なる想いを食口に届けたかったはずだ。天の願い(心情)と聞くと献金と伝道の数のノルマであるかのような教会の堕落体質は、図らずも国家権力によって打ちのめされる格好となってしまったが、食口達の精神復興と心情復帰が当面の摂理基台準備期間として与えられるべきだろう。日本食口は特に、日本人体質である依存根性を打破して、戴いた神様の霊を立てての自我の確立が要求される。自立性主体性あってこその摂理の進展だ。依存根性を悪用して搔き集めたものはものの見事に流れ去ってしまった。天文学的な通貨数値として流れ去ってしまった。その流れに恐れや依存の霊は乗っかっていたとしても、天の願いを立てる責任心情は供えられなかった。差し出したものに対して口出しはおろか血肉を分けて与える痛みも感情も覚えなかった。み言葉で武装すべき魂であるべきものを、恰も依存根性が喜びそうな御利益言葉に惑わされたまま喰いものにされ続けてきた。信仰とは名ばかりの御利益集団にいつしか堕落してしまった。認識もできない霊界や地獄の恐怖と、辿り着くこともない天国の高い位階を目の前にぶら下げられて、走り続けた結果を今の現実に見ている。総括して振り返ると失敗摂理の墓標だけが草も生えない荒れ地に立ち並んでいる。それぞれが正しく良心に向き合い、過去の歩みを総括してほしい。天国は心の中にあるとイエス様は言われたが、私達の心の中に本当に天国はあるだろうか。後天開闢時代だと言われながら、相変わらず恐れと依存と不安という地獄しか見いだせないのではないだろうか。霊的債務である蕩減が清算されたかどうかは良心が判断するのであり、御父母様でもないしましてや組織の長でもない。そしてこれからの摂理もどう歩むかも良心に尋ねながら歩む道だ。そう腑に落ちてこそ私たちは新たな出発ができる。日本人の誰よりも地獄の底で呻吟し続けた私達、だからこその統一食口の本領発揮はまさにこれからだ。

2022年11月16日水曜日

今日の想い 1206

 テレビをつければ、さも楽しくも幸せそうな人々で世界が溢れかえっているようなCMが、引っ切り無しに視界に飛び込んでくる。この滝のように流し続けるイメージで、視聴者一般は先ず無意識にもイメージ操作されているはずだ。もちろん報道は報道で事実と思しきものも流してはいるのだろうが、画面で切り取った事実は同じ画面で流れるドラマや映画と変わりなく、事実が事実として視聴者に受け取られてはいない。そこに戦争の現実味はない。食糧難で飢餓に苦しむ現実味はない。人権を奪われた少数民族の現実味はない。病に苦しむ現実味はない。社会や家庭問題の現実味もない。イメージ漬けのせいであたかも楽しく幸せな世界が当然で、自分の問題も含めて問題を問題として正しく向き合えない、すなわち人生に正しく向き合えず本来の人生の意義から逃げて、貴重な時間を無駄に費やしながら生きている。生きているとは名ばかりの生を生きている。教会に対する報道もワイドショーもただの見世物でしかなく、異質な存在に対する興味ばかりを煽って流しているに過ぎない。そういう感性の鈍化した社会への薬は、痛みを伴う現実の心的あるいは肉体的危機以外になく、今のままでは五感を超える精神的感性を受け取ることは難しい。その意味で天災や戦争や流行り病として、霊的権威の役事を天は既に許可している。金融危機からの財政破綻、ウクライナ戦争からの東西戦への世界化、エネルギーと食糧危機、コロナを超える流行り病、そして地震と大幅な陸地の海底化も含めて天の大々的役事が近い未来にプランされている。

今日の想い 1205

 主体相対の関係で、主体は相対にもなり相対は主体にもなる。三対象目的とはそれを言っているのであって、主体対象の関係は時と共に成長と共に変わっていくし、また変わるべきだ。神と私の関係性、親と子の関係性ももちろん変わっていくし、み言葉も河の流れが変わっていくように、み言葉の本質が変わらないためにも摂理の変化と共に、時と共に成長と共に光の当たり具合は変わっていかざるを得ない。教会との関係もそうだし、御父母様との関係も子として成長しているなら当然親子の関係性も変わってくるはずだ。良心が神にも勝るとなると、平面的に見れば人それぞれ良心を持っているのであって、そうなると方向性が異なり人類共通の神の願いを求めなくなると思う人も出てくるかもしれないが、神との関係を絶たないという根源を変えないためにもその関係性は変わっていくし、変わらざるを得ないと私自身は思う。私自身の関係性を見ても、過去には過去それぞれの時代に於ける関係性、それらを紡いだ今は今で過去のどんな時代とも異なる関係性を神との間にも、霊界や地上界にも、もちろん御父母様や教会との間にも持っている。それが生きているということだと私は思う。そして天地がひっくり返る明らかな違いは、良心との関係が他のすべての関係を対象にする主体的関係となったことだ。

2022年11月13日日曜日

今日の想い 1204

今、多くの食口にとってもっとも向き合うべきことは自信を取り戻すこと。教会に入り信仰を持ちやすい人というのは、元来自分に対して自信がなく依存しやすい人であって、真理を求めて入ってきたというのは自分への言い訳の部分が多いだろう。依存体質を変える為の信仰であるべきで、信仰を言い訳にして更なる依存へ向かうとしたらその信仰はどこまでも教条化、すなわちドグマ的にならざるを得ない。信仰の本来の意味を理解しない者はマインドコントロールや洗脳と断定してしまうけれども、依存のための信仰も信仰からの教条主義も、マインドコントロールではないにしても信仰の本来の在り方とは異なるので問い直し見つめなおす必要はある。昨晩妻とテレビを見ながら、マインドコントロールを連呼しあたかも精神患者扱いにされているようで憤慨だと言うと、妻はそういう面もあると言うから言い合いになってしまった。従わなければならない雰囲気があって逃げられるものではないと言う。別に鎖で繋がれている訳でもないのに、催眠術をかけられている訳でもないのに逃げられないとはどういうことだろう。そこには魂に染み込んで洗い落とせない依存体質がそうさせている。人間の精神としての主体性のなさ、及び欠如が日本人一般にあって、他国では考えられない依存体質故の問題が生じている。食口の依存体質がなければここまでの問題にはならなかったはずだ。その意味では食口こそアボジの心情相続を受けてその魂に主体性精神を植え付けてほしかったし、そうであって初めて天下国家を語り地上天国建設を牽引できる存在になってほしかった。アボジを自分の主人として迎えることを結論とし、親として迎えることができなかったことは日本食口として痛恨の極みだ。アボジに繋がるという意味を自分の中の依存という言葉で捉えるしかなかったという精神的怠慢は、特に責任者や牧会者は良心から問われて胸を搔きむしることになる。

2022年11月4日金曜日

今日の想い 1203

 Be yourself no matter what they say という箇所が STING が歌う English man in NY の歌詞の中にある。アメリカ、特にニューヨークは人種の坩堝と言われるほどにありとあらゆる人種が混在している街だが、どんな肌の色であろうが顔立ちであろうが、またどんな言葉を使おうが思想を持とうがお構いなしだ。マンハッタンに行けばかつての頃に比べれば衛生的にはなったが、しかしお世辞にも綺麗な街ではない。刑務所に入っていくかのように下った地下鉄の駅も暗いし、とにかく臭い。鼻を衝くほどにドブ臭い。こんな街の何処に若者を引き付ける魅力があるのだろうと思うが、人種もそうだがありとあらゆるものが混在していて宝探しにも似た高揚感をこの街に覚えるらしい。住みやすい街ではないが、この住みにくい街に住むという覚悟が住人としての強さであり誇りなのだろう。その誇りが彼等の背筋を伸ばし、信号も無視して早歩きで闊歩させる。そんなNYに比べると同じような黒い頭に同じような色合いの服で、思想思考も同じようでなければ受け付けないという日本は、自由意志に反する抑圧的力が社会に働いている。車が一台も通らない路地の信号で、誰見ていなくても黙々と待ち続ける日本人を、取り決めを護る文化人と見るか、それとも言いなりで自分で判断できない思考停止人間と見るかはまちまちだが、少なくとも当の本人に自分がどちらなのかを尋ねる意志は持っていてほしい。多くが思考停止で周りに流されるまま日々を蠢いているようで、ゾンビ映画でも見ているような不気味さが日本を覆っている。新興宗教にはまって洗脳されていると、そう指摘する側こそが実は洗脳されていると思うのだが、どうなのだろう。そう告げれば冷たく一笑するか騒ぎまくるかしてゾンビの側面を覗かせるだろうか。

2022年11月2日水曜日

今日の想い 1202

 性の関わりのない生はあり得ないのであって、その意味では性こそが生の創造だろう。一方では生命の誕生を喜び生命の尊厳を謳いながら、しかし一方で性愛の卑猥さや不浄を引きずっている。実体復帰に蓋をして当たらず触らずなのも、性愛に潜む穢れの感情を誘発させたくないからで、教会ですらひたすら隠すべくひきずっている。アボジに穢れの感情があったのか、それとも聖なる復帰儀式として何の後ろめたさもなかったのかは、アボジに原罪があったのか罪のない独生子なのかが問われる重要な点だろう。もちろん今となっては聞くこともできないが、語られた中にこういうのもあって、裸の女性が布団の中に入ってきても生殖器が微動だにしないと言われた言葉は検証に値する。それが真実であれば性欲を動じ静ずることのできる主管力を持っておられたことになる。またこんな言葉も口にされている。アボジは情愛をもって女性を見ることはない、要するにアボジは異性を意識されることはないということだ。短めのスカートでアボジの前に現れた女性に対してある責任者が強く注意したときに、アボジは貴方がそういう目で見るからだと逆にたしなめられたという逸話にあるように、アボジの性に対する感性自体が堕落している人間とは根本的に異なるのかも知れない。しかし青春時代よ早く過ぎ去れと思って過ごされたということは、性に対する感性は同じだけれどもやはり主管力の方が群を抜いているということになるのだろうか。どれほど信仰を深めようが訓読しようがアボジの境地には到達できないとしても、アボジの神様を想う心情が自己主管力を強め、自己主管力が心情をより深めた本然のアダムの魂の在り方をアボジは地上で見せてくださった。