2023年8月28日月曜日

今日の想い 1256

 法人を考えた場合、その法人の持ち株を半分から1%でも超えれば決定権を持つことになる。法人は当然そうなのだが、個人を考えた場合もそれは当て嵌まり、自分の中の半分を超えた認識が私という認識であり、意見もそうであり、感情もそうであり、そしてそれらを踏まえての行動を取るはずだ。私の中の戦いとは50%を超えて決定権を得ることの戦いだ。人間の矛盾性からの脱却は決定権を得て更にその影響圏を広げ、その上で主管の位置に立つ認識であり感情であり行動だ。主管の位置に立てば認識も感情も行動もブレがない。社会が安定しないのは矛盾からくるブレがそうさせる。同じように国が安定して国民が平安を得るのは如何に矛盾を超える国体認識、国の伝統や文化という国家的感情を50%を超えるものとし、更にその版図を拡大しながら否定的認識や感情を完全に主管下にすることで国は益々強固になる。意識するしないに関わらず個人が矛盾性からの解放の為に戦っている人生であるように、国は国として戦っている。別に他国との武力戦だけが戦いではなく、外交に於ける駆け引きも戦いであり、更にいうと国内に於ける様々な意見を議論しながら叩き上げて集約する戦いは分刻みで行われている。武力戦が何もないところから突如として現れるのではなく、そういった内外の戦いを勝ち抜かなければ最終的に武力戦になるのであって、好戦的人物やグループが存在するからそうなるのではなく、意見の集約という或る意味内戦をしっかり勝ち抜かないから結果的に武力戦に突入していくという理解が見えていない。平和を訴えれば平和になるのでもなく、ましてや平和憲法として条文化しているから平和になるのでもない。そんな単純思考が罷り通る日本は叡智という言葉からは程遠いし、主体的に問うて学ぼうともしない稚拙とも言える国民だ。世界の中でも自殺死亡率が高いのは、個人としての戦いを放棄しているか戦いという認識もされずに最初から生きることに白旗を上げているからだ。生きることは戦いだけれども、生きることの意味、生きることの尊さを問い学ぶ宗教や信仰を国の中心たる首相が否定したのは、まさに戦うという意識を抹殺する発言であって、こんな首相を戴いている限り国も国民も滅びざるを得ない。

2023年8月27日日曜日

今日の想い 1255

 教会は苦労の百科事典だと話されたが、苦労でもって愛を開拓する、愛の百科事典だと言えばアボジは二つ返事で納得されるはずだ。昨日4年ぶりだという同窓会に参加してきた。私自身、4年どころか一度たりとも参加してないので彼是同級生に会うのは50年ぶりとなる。帰国を知っている同級生の従弟叔父から誘いの連絡があって、数か月先の話だからと軽く了解を入れておいたのだが、いざ明日の事柄となると尻込み始めた。行ったら行ったで体形のことから始まって教会のことを含めいろいろ言われることはわかっている。責め苦の嵐に揉まれているその場のイメージしか湧いてこなかった。そうは言っても行かなけば行かないで詮索されたり触れられたくない話題で盛り上がるだろうなと思い数時間の我慢と決め込んで参加してきた。前口上が長すぎたが、結論を言えばさして目立つこともなく穏便に時は流れた。私の自意識過剰だったようだ。肩透かしを覚えながら、しかしそれなりに挨拶するに一人一人の印象がどうも薄すぎる。本当に彼等と十代の時間を共に過ごしたのだろうかと訝り通しだった。確かに表ではそれなりに付き合ってはいたが、基本引きこもりで一人で過ごしたいタイプだったことを思い出し、そういうことかと納得した。人とのコミュニケーションは傷つけたり傷ついたりの苦労は付きものだろう。それを面倒臭がり距離を置いてきたのであれば愛の何たるかも知ることもない。参加はしたもののさして誰と会話を交わすこともなく、手持無沙汰で食事に専念している私の席に、敢えて足を運んで昔の思い出話をして懐かしがったり、会えたことを素直に言葉に出して喜んでくれる同級生も一人二人はいて、ああこの人達は愛の何たるかを学んできたんだと、私の長い信仰生活の結実を逆に問われているようで心苦しかった。

2023年8月25日金曜日

今日の想い 1254

日本人それ自体の脅威は日本人である私自身が感じていて、それは得体の知れない背後であったり、一つの方向性を与えられたらどんな手段を取ろうが突き進むことだったりする。私は戦時を生きたわけではないけれども、戦時の日本軍が鞭の上に鞭を重ねて肉を削ぎ、戦場に追いやった当時を献身時代に追体験している。私の万物復帰の体験は戦時そのものだった。ノルマに追い遣られ、鬼軍曹に罵られ尻を叩かれ、尋ねる一軒一軒から白い目で見られる。耐えられない私は肉体から魂を消し去りたいほどで、その当時の嘔吐を覚えるトラウマが未だに私を苦しめている。日本の教権指導者達はそういった精神虐待的指導が罷り通っていた認識があるのだろうか。私の実感は、振り返れば神の愛だったというアボジの言葉にあるように、そんな当時は愛とは無縁の対局であり周りは愛の言葉を口にする鬼の連中であり、恨みを覚える当時を生きたからこその愛とは何かをみ言葉に見ようとする態度が私の中に培われたと思っている。私は長という肩書が全く無縁の立場で、アボジの裾にただしがみ付いてきた祝福乞食に過ぎないが、指導し前線に追い遣る立場で教会にいた全ての中心者や責任者、最も口を開いてこの世からの降り注ぐ矢面に立つべき彼等が、隠れて息を潜めているのは憤慨もするし遣り切れない思いもある。信仰の先輩達がこの様で、結局為に生き真の愛を立てる精神は爪楊枝ほども立っていなかったということなのか。日本にいる韓国の責任者が逃げるのはさもありなんとしても、日本人であれば腹を切る潔さを恰好だけでも見せてほしかった。過去の戦犯達は立場上仕方なかったとしても、それでも命をもって償ったのだから。そうやって責任者や中心者達にも霊界のアボジの前で是非報告して欲しい。アボジがいない地上で、鶏が鳴く前に三度否定するという聖書の言葉通りにならないように自らの行動を示すべきで、隠れたままで遣り過ごして自分の良心が負債を覚えないはずがない。過ぎてみれば神の愛だったと、霊界に赴いてアボジの前に出たときに発言することができれば信仰の勝者となるはずだ。それでこそ日本の蕩減は日本の彼等の言葉と態度で復帰されると思う。今のままでは当人どころか配下でアベルの言葉に従ってきた全ての食口も敗者であり、罪の印を押されてしまう。

2023年8月24日木曜日

今日の想い 1253

 中国や北朝鮮は実のところ日本を脅威に思っている。日本人は日本が弱いから中国に尖閣諸島を包囲されたり内政干渉を好きにされ、北朝鮮は日本海に何発でもミサイルを落とし続けると思っている。しかしこれらの行動は日本こそが脅威だと思っているからこその行動であり、それ故にそれ以上深入りするほどの度胸は今のところない。脅威に思っているのは彼等のみならず、同盟国アメリカこそ日本を脅威に思っていて、それ故に日本国憲法は日本精神骨抜きで作られたし未だに軍事面での抑え付けは厳しい。ましてや核の保有などもっての外で許されるはずもない。アメリカは独立戦争から始まって内戦外戦と続けてきたが、実は日本との戦争は這う這うの体でこれ以上続けられない程辟易していた。二発の原爆投下は既に日本中が焼け野原であってもそれでも日本を恐れていた証拠であって、敗戦を目前に人とも思えない日本人に原爆を落として実験場にした、等というのは半分は彼等の強がりで、トルーマンは根絶やしにしなければどうなるかわからないと日本人を脅威に思っていた。今の日本は骨抜きにされた日本の体を装っているが、自腹を切るほどに日本人は国の為なら何でもすると中国も北朝鮮も思っていて、いざ戦うとなると日本民族が殲滅するまで戦う決意が必要だというのが彼等の脳裏にあるのは間違いない。ベトナム人、ビルマ人、韓国人、そして中国人、彼等を従業員として接しながら、日頃は優しく接しながらも一端言葉の中に怒気を含ませると反論もしないし私との距離を取り始める。日本人は怒らせると怖いと皆が思っているから注意して下さいと後でベトナム人の従業員に耳打ちされたことがある。アボジは日本は忠孝の源と言われたが、忠孝心を多民族と比べて突き抜けて養われた民族だからこそあるじを間違えると恐ろしいことになる。日本人が生きる道は真の父母を通して天に繋がる道以外ないことは日本食口であればわかるはずだけれども、どこからか日本はどうなってもいいというような風潮が私達の中にあって、そうなると日本社会として教会を嫌悪してしまうことは理解せざるを得ない。日本社会が私達を良心的な人達だと言われるのを超えて、日本を愛し真剣に日本の未来を案じて行動している人達がいると思われなければ、日本の居所を失い住めなくなるだろう。ここまで有名になった今だからこそ日本社会は聞く耳を持っているはずなのに、しかしながら私達の中から誰も救国の声を発する者が出てこないのはどういう訳だろうか。勝共は救国ではなかったのか。既に日本の救いの摂理は捨ててしまったのだろうか。

2023年8月23日水曜日

今日の想い 1252

 日本は今年も8月6日と9日の原爆の日から終戦記念日を迎えた。通年は、日本の最後の熱を奪われたその日を超えると一気に涼しくなるものだが、どういう訳か今年は、超えて更に熱い日々が続いている。私は日本人に、とりわけ日本食口に対して熱くなれと天から発破をかけられているようで落ち着かない。毎年此の頃になると開戦に至った原因を問うたり、終戦なのか敗戦なのかを問うたり、戦争をなくすためにどうしたらいいのか、等の議論が放映されるが、ただの知識のヒケラカシであったり答えを出さない議論で満足していて、本質に訴えかけるものとは程遠い。私の想いははっきりしている。あの敗戦(終戦でなく敗戦)で日本人はそれまでの全てを失った。それは本土攻撃で多くの日本人も抹殺されたしインフラも失ったし政治経済や社会システムも否定されて失ったのみならず、最も奪われ失ったものが日本人としての精神性だった。日本語を使いながら培ってきた精神をあの敗戦で抹殺された。しかし私は多くの文化論者、民俗学者、歴史論者、それが右だろうが左に傾いていようが、敗戦以前の精神復古を声にする者だろうが、彼等と全く異なるのは、神の摂理はかつての日本精神を悉く否定されたという事実だ。私達祝福家庭が真の父母を通して天から与えられた新しい霊は、かつての日本精神を超える、それはキリスト教の精神をも超える新しい霊を戴いたという事実だ。日本食口は日本語を使っているけれども、それは取り敢えずの方便であって日本語に流れていた精神性を学びはしても精神として受けるべきではない。アボジは韓国語を学ぶように口を酸っぱくするほど語られていた。その後に英語を学ぶように、そして日本語も学ぶように話された。韓国語は学ぶという言い方はされているが、受け取るもの、すなわち韓国語の精神性を受けなさいということだ。私ももちろん日本で生まれ日本語で育ったわけで日本の精神性の残骸は沁みついているが、アメリカで英語を使い、韓国人も多くいたので韓国語で彼等に接っして最も感じるのは、和をもって尊しに代表される日本精神ではあるけれども、日本語に主語の曖昧さがあるように日本人の中に自我や主体性は立ちにくい。しかしそれが立たなければ彼等の中で生活し生きていくのは難しい。主体的に立つということが、日本精神の残骸の中では排除されるが、アメリカは周りに合わせるのではなく自分が自分の自我を立てなければ生きていけない。それはアメリカに留まらず普通のことだけれども、日本では普通ではない。敗戦は摂理であり、今更に日本精神を伝統や文化、歴史を紐解いて復古しようとしてもそれは神に逆らうことになる。確かに敗戦国であり、アメリカから内外の多くを持ってきて宛がってはいるけれども、キリスト教精神の根本である主の霊を受けることはなかった。アメリカは全てを与え教えたようで実のところ主の霊を与えてはいない。だから日本の堕落性ともいえる村八分の同調圧力という亡霊に未だに苛まされているし、言葉ではそれらしいことを言っても日本は自主性の欠落した、国の体を為しておらず何処かにオンブされた属国だ。日本人に霊の柱が立ち精神性を備えることができるのは実のところ祝福家庭の日本食口でしかない。しかし日本食口がその価値を理解していないことが大問題であって、その理解がそれなりにあるのなら、今回の一連の問題に対しても、そして本部や御母様に対しても、玉を抜かれたような、思考も感情も停止したような態度や行動を取るはずがない。35度越えの暑い日々が続いているが、天の霊を戴いた神性人間は通常平熱を超えた熱い血潮を滾らせる神人類になる。

2023年8月19日土曜日

今日の想い 1251

復帰摂理時代の統一王国時代、サウル、ダビデの基台の上でソロモンは神殿建設を成し遂げた。モーセの幕屋が象徴的メシヤであり神殿は形象的メシヤ、そしてイエス様という実体のメシヤを迎えたわけだが、復帰摂理からすれば再臨のメシヤを迎えたにも関わらず摂理時代を遡って神殿を建設する摂理的目的とは一体なんだろうか。今、この後天開闢時代にどうして神殿建設なのだろうか。日本食口に生活の犠牲を強いて、食口は誇りも希望も見失って、その証拠にメディアや被害者弁連の教会叩きに対してあちこちから声を上げる食口が出てきても良さそうなものなのに、ほんの片手で数える二世くらいしか声らしい声を上げる様子もない。このご時世にあっても打たれる時は打たれるべきとして頭を垂れているのだろうか。教会の摂理に対する姿勢も理解できなければ、声も出さず黙々と従っている日本食口達の行動は更に不可解だ。解散命令が出されようが出されまいが、既に教会は終わっている。社会の突き上げから二世達を守りもせず戦いもせずに逃げてしまった一世や責任者達が、どうして今更食口を先導し摂理に馳せ参じる声を上げることができるだろうか。教会や本部に背を向けるのは許せるとしても、二世達を蔑ろにし子女への心情責任から逃れるのは真の愛とは言えないだろう。

2023年8月17日木曜日

今日の想い 1250

 親戚も知り合いも、勿論よく知る食口も、一人また一人と地上を去ってゆく。そんな報せを耳にしながら、私はというと、今日もまた受け入れられぬ置かれた状況と取っ組み合い、信仰から認識に至らないみ言葉の数々を頭の中で延々と巡らし繰り返している。渇きを癒そうと求める自分に従うことは良心に従うことではない。しかし戒めに囚われ続けるのが良心の願いでもない。そんなことで紋々としている自分を憂い悩む別の自分もいて、愛となんの関係ありやと一蹴する。肉体の次元であってもいつ癒されるともいえない渇きを覚えながら、潤いの尊さや地上の潤いを超える霊性の潤いを手にできる、と無理にでも信じる。朧げなその期待と意志が今の私を生かしていると言えなくもない。おそらくそんな話を食口にすれば口を閉ざされて引かれてしまうだろうが、私にすれば信仰人生を歩む中で唯一と言ってもいい摂理的課題だ。地上を去ってゆく食口は、それぞれの摂理的課題に向き合い、答えを紡ぎ出して神様への贈り物としたのだろうか。だから多くの家族や食口に見守られながら天に召されたのだろうか。今私が事尽きても、親戚が数人、おそらくそれも世間体を考慮して参加してくれるのみだろう。恥ずかしくもネットに残していく揺れ動く心の在り様は、誰一人見ることもなく、それでも地上に生きた小さな魂の証としての一葉の枯葉でしかない。

2023年8月16日水曜日

今日の想い 1249

 いつ終わるとも知れない暑い日々を送り、滴り落ちる汗を拭いながらもこの体験の意味を問うてみる。これは異常気象だと毎日のように報道は伝え、それを真に受けてどうなるでもどうするでもないのに、そうか異常気象かと納得を強いられ、溜飲を下げる条件反射のみで他に成す術を持ち得ない。極めて動物的な単純思考のままそこに霊的成長は伺えない。人類は歴史を通して声を発する者、声を大にして先導する者に従ってきた。そんな大衆に従順な者達からは摂理を捉え歴史を導く者は出てこない。熱い最中、盆が来るというので田舎の墓の周りの草刈りに精を出した。ご先祖様を想う日々の私であれば、こんな大草で占拠されるに任せることはないのだろう。「お墓に私は眠っていません」と何度も耳にするものだから、別に大草が生えようがどうしようが問題ないと放って置いたものの、それでも周りは盆くらいは草刈りしているので、その同調圧力を覚えたわけだ。そんなことだから先祖への想いは薄いが、それでも陽に照り付けられながら滝のように流した汗で供養した。私達が常に言われ続けた言葉、「汗は地の為に涙は人類の為に血は天の為に」、この極暑の日々、皆が汗を流しながら地に対して供犠している。暑い夏になると大地震を誘発するという科学者もいるように、地の変革を滞りなく完結する為に人類の汗の供犠が必要なのかもしれない。地軸の移動(ポールシフト)であるとか、自転の反転であるとか、新大陸の隆起であるとか、様々な地球の展開の噂が耳に入ってくるけれども、おそらくそれに合わせる形で人類の国家システム、経済システムを始めとする様々は社会的システムが、摂理の要求に合わせて変容されていくのかも知れない。来週はBRICSの会合が南アのヨハネスブルクで開かれ、金本位制或いは基軸ドルに対する通貨制度の立ち上げの噂に西側諸国は戦々恐々だ。

2023年8月1日火曜日

今日の想い 1248

 アボジは真に夜の神様の出自として地上生を送られた。出自が夜の神様だからこそ祝福(血統転換)の儀式を堕落世界や罪の人類に提示されることができたし、絶対の概念も天に通じる中心位置にある祝福家庭に示された。性を地上的な立場でどうこう言うことはできるが、あくまで地上という堕落世界に限った話であり、その内的霊的な意味、さらに神霊的な意味を提示するのは地上人である以上は先ず無理だ。これまで地上人は堕落の中心的問題である性を言葉にすることも憚られたし、触れれば人間としての品性を疑われるほどで、汚物桶に押し込んだまま今日まできた。愛の表現として性を持ち出す人もいるけれども、どうも言い訳がましく聞こえるし性が愛の表現に留まらないのも性の実態だ。愛があろうがなかろうが性の衝動は発動するからだ。祝福一世の性はアボジによって相対を戴いたという一点で体を重ねる。天の血統に繋がるという動機から体を重ねて一つになるのであって、そこから愛を芽生えさせ育んでいく。性が先で愛が後だ。人間は位相が一様ではなく異なっていて、それ故に性の在り様も異なっていると見る。例外を許さない一夫一婦制が創造本然の願いかどうかも私自身は疑っている。世界的になったキリスト教が一夫一婦制だから先ずそれに合わせる為にそうなっただけで、実際いろんな形の家庭の在り方を取っている宗教も民族もあるし、他の宗教を否定しないのであれば家庭の在り方も否定されはしないと思うのだがどうだろうか。たとえ一夫一婦制が創造本然の願いだとしても、摂理を進める上で原理原則の縛りを最優先する必要はないし、それを優先して節理が進むとは思えない。渋沢栄一は日本の経済の土台を築くべく多くの会社や団体を立ち上げた。一方で妾が数十人もいたとかというマイナス面の話も耳にするが、異性を愛し好む意欲が旺盛でモノにしてきたからこそ社会的貢献も大きかったと私は思っている。アボジが褒め称えていた徳川家康とその血筋も、大奥で女性を何人も抱えていた。立志列伝に名が乗る有名どころに、生涯愛した女性は一人だったというのはおそらく片手で数えるほどだろう。どうしても社会では倫理的道徳的な測りで見、教会では教条的な測りで見て人格を問うが、アボジは(人格者と言われる人も含めて)「誰一人として天国へ行ける人はいない」、すなわち誰も罪を問われない人はいないとなると、アボジが言われるように「いかに正しい歩みをするかではなく、いかに天国建設に貢献する歩みをしたか」を問われるのではないだろうか。私が今までの宗教的感覚と異なる突拍子もない方向に向かっていると思われるかも知れない。しかし一つの摂理的時代が終わり、新しい時代圏で新しい人生観価値観となると、善と思われたものが悪となり、悪と思われたものが善となるのも当然だと思う。少なくともアボジとは異なる、それこそ突拍子もない御母様の独生女の話を信じるならば、先天の全ての観、信仰観を始め人生観価値観善悪観家庭観全てを否定しなければ受け入れられないだろう。今御母様に従っている者達であっても、御母様のお話を信じている人は誰もいない。ただ頷いているだけでそれは信仰ではない。