2023年9月27日水曜日

今日の想い 1264

 人生の問題を真摯に問うて入教した食口であるなら、原理とみ言葉が大きな柱となって導かれてきたことに異論はないだろう。そして新しい真理による人生指針への新鮮さと明快さは、己が人生をかけてこの道を歩むに相応しいと当然思ったはずだ。未だに、惑わされている、なんぞと人助けでもしているつもりで私達に助言するけれども、根本問題への意識の欠如した者達の思い込みで対され、彼等にとっては全てを捧げて歩むことが全く理解不可解で、観念的なマインドコントロールという言葉で認識する以外ないらしい。一方私達の社会に対する問題は、社会を救うといいながら実際のところサタン世界と認識して社会の人達から距離を置いてきたことだ。そこには選民意識もあるし救いの理解も曖昧で、社会を愛して救うといいながら現実の行動は社会に対して独善的で排他的だった。目指すものが高すぎるが故に理想と現実の仲補となれず地に足がついてはいなかった。しかし社会から注目されるようになった事件以来の食口達の行動や言動を見るに、人生をかけてこの道を歩むことを意志した者としては随分熱量が冷めているし、み言葉に出会った当時の霊界の晴れた新鮮さや意志の明快さはとっくに影っている。SNSで、「統一さん、もっと戦ってください」と、み言葉を知らない人から言われ歯がゆさを与えてしまうほどに義憤どころか怒りの感情すら伺えない。燃える意志の魂から燻る惰性的な意志欠如へと、信仰の翼は深く傷ついていて、高みの精神を目指して羽ばたくことなどもう至難の業だ。日本の食口が切り取られたみ言葉や中心者やアベルの言葉に対してのみイエスマンとなり、自分の中に天の心情相続への実感を積み重ね、魂や精神の成長を認めることができなかった道のりであるなら、そのままみ旨だと自分に言い聞かせて歩むことに差ほど意味はない。もし心情相続が少しづつでも為された歩みであるなら、良心が益々際立ってくるはずだ。天によって強くされた良心に従うのが当然であって、どんな団体に組するかや教会存続の如何は私のみ旨とは関係がなく、私に対する摂理が止まってしまう訳ではない。

2023年9月19日火曜日

今日の想い 1263(西洋と日本2)

 統一神観がキリスト教と異なる点はいろいろとあるが、人間は被造物だが本来神が宿る神の宮だという点、そして万物は勿論被造物だが万物にも神性の一部が宿っているというキリスト教にはない異なる点が重要だ。神が人間に万物の主管を委ねたのではなく、人間に神が宿って万物を主管する。主管と言えば上から下に見る格好だが、万物に神性が宿っていて愛をもって愛おしむと言った方が表現としては合っていると思う。西洋キリスト教社会からは神への態度を学べるが、万物に対する態度としては日本に学ぶことが多いと思うし、その点統一神観は中庸であって素晴らしいと私は感じた。教会に対する今回の問題は、食口からは宗教迫害だ信仰の自由の剥奪だと騒ぐけれども、もともと日本に神観を根付かせる土壌はないし、神は当然いないとはなから論議もしないし、神無き科学物質主義が隅々まで浸透していて、宗教的精神などそう簡単に理解できるはずがない。信仰の自由の為に戦った経験はなく当然信仰の自由の体感や重さはわからない。個別の信仰を持つこと自体が異質でありカルトと見られてしまい、信仰の自由は法的にはあるかも知れないが信仰の自由の雰囲気や空気などもともとない。敗戦して、神の代替えであった天皇も一人間となられたのは良しとしても、マッカーサーは天皇に代わる神という名の絶対存在を憲法にも謳い教育にもすべきだった。敗戦以降の宗教的権威を今日まで持てなかったのは国体の未だない日本衰退の根本要因だ。周囲の目を恐れる村社会文化はあれど、神を知らず畏れないから愛の精神の何たるかもわからない。政治家や官僚の公的の意味も神民に仕える公僕ではなく、永田町村であり霞が関村のことしか視野にない。それは原理を受け入れた日本食口も同じで、御父母様を現人神と同じと思っていて、良心が研ぎ澄まされずに現人神の御機嫌を取ることにのみ力を注いできた。後天時代に入ってアボジが良心宣言をされても尚、視野の狭い信仰観で教会の中のことしか範疇にない。アボジが聖和されても基元節を超えても尚、日本人が周囲しか見ていないように食口も周囲しか見ていない。今となっては日本食口の口のない忠誠心が裏目に出て、口を開くべき時でさえ何も言えない。

今日の想い 1262(西洋と日本1)

 西洋と日本の根本的な違いは、西洋キリスト教社会は神によって万物は創造されたという被造物観、しかし日本は万物に神や霊が宿るという八百万神観が古来からある。西洋に於いて、この被造物観から造られた万物は神から人間に主管を委ねられたのであり、そこに必然的に人間中心主義(ヒューマニズム)が芽をだし、さらにヒューマニズムから科学主義(物質文明)が導かれてきた。日本に西洋文化がなだれ込んだ時、キリスト教の神観そして被造物観を差し置いて、先ずヒューマニズムと物質文明が広がりを見せた。それは日本にキリスト教が馴染まず、というか八百万神観という日本人の根底を正しく変える時間もなく、下手な接ぎ木状態で西洋文明を受け入れたものだから、ヒューマニズムは個人主義へとなだれ込んでいくだろうし、科学主義は物質万能主義へとなだれ込む。とりわけヒューマニズムが日本を士農工商の身分社会から立身出生によって身分に差は無しとなり、さらに個人主義(エゴイズム)へという流れを止めるのは、あえて西洋ではキリスト教によって浸透した規範を日本では天皇を神として奉る天皇制に差し替えられることで一応堰き止めることができた。大日本帝国憲法には第一条に「万世一系の天皇による統治」、第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」という文言が謳われている。まさか草案した者達にそれだけの深い思慮思索があってのことではないだろうが、結果的に西洋に於ける神の存在が日本では天皇に置き換えられる格好となり、それが奇跡的に機能したということだ。しかし問題は天皇は創造神ではなく限られた朽ちる肉体を持って現世国家と密着している。武士道精神も相まって他国と戦っているうちは機能したものの、敗戦して人間天皇になるや否や天皇の言葉は力を持たず、日本は個人主義と物質主義の流れに歯止めは効かなくなってしまった。そして神に代わる存在を戴けず日本の精神の荒廃ここに至れりとなってしまう。

2023年9月17日日曜日

今日の想い 1261

食口の誰もが知っているように教会は三分裂した状態にある。しかし教会が分裂したのであって真の家庭が壊れることはない。御母様には御母様の言い分がある。それぞれの子女様にもそれぞれの言い分がある。そして食口の大方は絶対信仰の観点から御母様に従っている。もちろんそれが普通だろうし当然なのかも知れない。それは論理的に考えての行動ではなく、御母様は御父母様一体圏を成立させる御母様であってほしいという期待からそうなのだろう。私の立場は三つのどれとも異なるが、しかし全てに賛同しているとも言える。先ずそれぞれが党派をつくり袂を分かっているけれども、どこかに所属してしまえば分裂を事実として認めたことになってしまう。私はどこまでも正反合ではなく正分合だ。真の家庭は一つであり、真の家庭に繋がる私達も一つだ。袂を分かっているのは家庭内でのことではなく党派、すなわちどう解釈するかの観点で異なっている。異なっていようがどうであろうが真の家庭は一つで分かち様がない。韓国ドラマを見るように壮絶な遣り取りがあるけれども、一つであって切っても切れない関係だからこそこうも激しくできる、と見ることもできる。お互いを敬い笑顔で褒め合っていれば一つなのかというと、決してそうでもないだろう。親子間であっても熾烈な応酬をほぼさらけ出しているのを見れば、そこに、臭いものには蓋というような隠し事もない。食口の多くは悲観的に捉えているが、これも摂理であって、起こる全てに蕩減的側面と創造的側面があるように、こうなればこそ前進できる創造的側面も見出せるはずだ。現実的に一つかというとそうでないことはわかるし、それを無視して一つだと言い続けることに意味はないが、現実は通過点であって霊的な事実を見届ける感性を失ってはならない。そしてそこに見えてそこから受け取るものが御父母様の勝利圏だ。今の状態を真の家庭は壊れたと認識するのは、御父母様一体圏から何の恩恵も受けなかったと溜息をつく者達の恨み言に過ぎない。壊れたと認識することで信仰を投げ出すのであり、心情圏の少しでも相続した者であるならそういう結論は出さない。

2023年9月16日土曜日

今日の想い 1260

神様は愛がより愛らしくなるために、堕落の淵にあってもアダムとエバに任され、手出しはされなかった。おそらく原理を聞いた誰もが、どうして親なる神は堕落する子に何某かの救いの手を出して止めなかったのかという疑問を持ったはずだ。しかし堕落論を受けたときこの言葉が実に的を得ており、自分自身深く頷いたものだ。そしてそれは自分が親になって子に接するときに生きた言葉となって私を導いた。それぞれの祝福家庭を平面的に捉えて見比べるなら、それほど苦労もせず親が薦める祝福を受け入れる二世や、自分の子供がそうであるように身が削がれるほどに神経を使い涙で訴えても親には従わない二世もいて、この違いをどう捉え受け入れればいいのか相当に悩み気を病んだ。しかし後に振り返れば私はその同じ立場を経験しなければ神様の心情を理解することはないだろうし、私の子供達への愛はより愛らしくなるために更なる愛の苦労を受け入れることもなかった。そう、神様はアダムとエバの堕落以前にも増して、そして今尚、愛がより愛らしくなるために愛の苦労をされておられる。妻の大病や、この世に染まっていく子供をどうすることもできない、そんな置かれた環境に対して神に毒気を吐いてしまう私に、それでも神様は手を差し伸べることはない。そう、愛がより愛らしくなるための私が担う環境圏だ。愛がより愛らしくなるために先ず私は横を見て比べることをやめた。それ以上に私自身がどうか、私の良心に鑑みてどうかという縦を軸にして横第一指向を正した。この地上世界は愛の訓練場だ。光溢れる地上であってもその恩恵を遮断して孤独という愛の減少圏内に住み続ける。光は認識できてもそれを内なる私に受容できなければ光を遮断して生活しているのと同じだ。もし光の中に愛を見ることができれば光を受容できる。愛を見ようとすれば、自ら愛を発する恒星となるべくより愛してみなければ愛はわからない。そう、愛がより愛らしくなるために、、。

今日の想い 1259

 円にしろドルにしろ、お金の価値をどう捉えるか、もっというと今まで円という紙切れとドルという紙切れに価値を見ていたが、果たして本当に価値があるかどうか、大体にして通貨とは何かを今人類が問われている。これから価値の本質に気付くかどうかが、万物を代表するかつての通貨の役割以上を担う万物王を見出し、更に主管できるかどうかの岐路に立ち、真の万物の主管主としての方向に舵をきれる。私の岐路は以前の投稿に記したように、或る時突然出くわした。営業が終わって従業員皆が出払って、一人ダイニングの掃除をしている真夜中の出来事だった。簡潔に言うなら、一枚の薄汚れたペニー硬貨を見つけ、それを大切に手の平にのせて涙を流した。それはペニー硬貨が見捨てられた嘆きを私に訴えたからで、ペニーと共に涙した。愛してくれる主管主のいない万物の嘆きだった。ドルは基軸通貨としていくらでもプリントできたし、ドル通貨国のアメリカは国債発行(借金証書)すれば他国がいくらでも買い上げてくれた。しかし借金は当然のように毎年増え、GDPを優に超える累積借金でもまだ借金し続けている。コロナショック以来、インフレが跳ね上がってきて初めて通貨の価値が目減りしていることに国民はやっと気付き始めている。しかし食口が後天に入っても信仰観を変えることができないように、半世紀をかけて染み付いた世界の民のドル通貨信仰はそう簡単に変わらない。茹でガエルならず、逆にドルの価値が次第に冷えていって知らない間に氷漬けになるという氷漬け経済を数年を待たずに見ることになる。映画Day after tomorrowは地球寒冷化による氷点下世界だったけれども、おそらくその経済版を見ることになるだろう。気温は益々上昇する中での氷点下経済を誰が一体イメージすることができるだろうか。BRICS+αの経済圏通貨が取って代わる?中央銀行が破産し国家発行によるデジタル通貨になる?様々な経済覇権の見通しが行き交うけれども、おそらくどれ一つ的を得てはいないだろう。しかし確実なことはドル基軸体制は役割を終えてしまった。そして氷漬け経済が世界人類を襲う。そして氷漬け経済の中から新しい通貨価値が芽を出し、新たな経済の活力をうねらす。そこには予想だにできなかった天の知恵が働いているはずだ。新たな経済を泳げる人々は、それまで地上では日の当たらなかった或る霊的感性を育んだ人々だ。万物の本質を心情的次元で見出し、愛して生命を吹き込める霊的感性だ。祝福家庭食口達にはその先陣を担って欲しい。果たしてそれまでに食口達は、良心革命を為して後天時代を生きる術を魂に備えているだろうか。日本の教会のこの危機こそが日本食口の目覚めの大きなチャンスだ。善神は悪神の背後に必ず隠れている。この迫害の時代を我慢すれば大きな恵みに与るとただ待っているのは、それは摂理観に立っていない無責任な御利益信仰に他ならない。

2023年9月15日金曜日

今日の想い 1258

 これまでの日本の施政方針の流れからして解散請求は既に決定事項だ。請求されてから司法に委ねられることになるが、これも恐らく時間は幾らかかけて審議する風を装うものの、やはり決定事項なのだろう。私は日本の法治と三権分立は曖昧で器だけの内容の無さで、根底にその思想はないと思っている。よって暗殺事件からの教会叩きへの誘導と政府の判断も不可思議極まりない。教会の解散は遠くない未来に確実となると思っていたほうがいい。こういう見解に対して否定的でカイン的だと断定されるのが教会の空気だろうが、それはかつての日本の大本営的空気に流される国民と何ら変わりなく、しかしそんな言い掛かりで私の感情を刺激されることはどうでもよくて、それ以上に教会がなければ自己肯定ができない食口のこの先の方がよほど心配される。天の心配と希望は、教会べったりで最後には思考も感情も失いゾンビのように従うことだけに忙しくしてきた先天を卒業し、良心革命を為して天の代身と称する者による主管を自分の良心に取り戻す後天を生きるのが後天的信仰観であり摂理観だと目覚めることにある。教会が瀕死の状態であるのは、外的に反社だ反日だと攻撃されるからではなく、本当の問題はこんな状態にあっても「打たれた後には恵みがある」と能天気に構えている、責任感情不在の中心者、責任者や食口の烏合の衆が教会の魂を削いでいることにある。こんな状態にありながらも教会から闘う気概は全く感じられず、SNSで外部から「統一さん、もっと戦ってくれ」「なんで立ち向かわない」と教会の熱の無さに呆れられている。教会に魂が失われているのを見れば、天は既に教会の中にはおられないことがわかる。やたらに神殿建設に発破をかけられるが、神殿に神霊をどれほど感じられるだろうか。私自身は不信仰だと言われ様とも、神殿から神霊を感じられない。神殿実体を迎える為の神殿摂理であったはずが、真の父母の実体をやっとの思いで地上に迎えたにも拘わらず、摂理歴史を数千年も遡らせる神殿建設の意味や想いを教会責任者の言葉から全く受け取れない。

今日の想い 1257

老いて気付いたことがある。老いは年を重ねるにつれて時間の先の彼方にあるものが近づいて来るという印象だったが、実は老いは生まれて此の方私の背後を追いかけながら、或る年齢に差し掛かると随分近づいて来て背後から影響を及ぼし、細胞生命の誕生を促す若さを完全に老いが収奪するほどに合わさり、そして私を超えて老いが前進すると老いの正体の全てを見ることができるようになる。老いの実体は死の勢いに他ならないということが老いてみて理解できた。若さの実体が生の勢いであり、私は生と死の狭間で、若さと老いの勢力の相互作用で地上の魂を活動させている。人間は約60兆個の細胞で成り立っているが、毎日約1兆個が入れ替わり、すなわち毎日1兆個の細胞が死んで生まれている。若い時は入れ替わりが激しく、年老いてくると入れ替わる頻度は遅くなる。若い時は多くの細胞の死をもって若さを保ち、老いればより細胞を生かしながら老いを深める。個の魂に於いて地上と霊界が逆説であるように、膨大な死で若さを、そして膨大な生を維持させて老いを、という逆説になっている。若さ故に未来に対する希望や理想という光を追いかけて生きてきたが、今は老いの実体である死の背中を見始めて、過去未来に囚われない時空超越次元で、燦然と輝く心情の太陽を求めて生きている。