2023年9月19日火曜日

今日の想い 1263(西洋と日本2)

 統一神観がキリスト教と異なる点はいろいろとあるが、人間は被造物だが本来神が宿る神の宮だという点、そして万物は勿論被造物だが万物にも神性の一部が宿っているというキリスト教にはない異なる点が重要だ。神が人間に万物の主管を委ねたのではなく、人間に神が宿って万物を主管する。主管と言えば上から下に見る格好だが、万物に神性が宿っていて愛をもって愛おしむと言った方が表現としては合っていると思う。西洋キリスト教社会からは神への態度を学べるが、万物に対する態度としては日本に学ぶことが多いと思うし、その点統一神観は中庸であって素晴らしいと私は感じた。教会に対する今回の問題は、食口からは宗教迫害だ信仰の自由の剥奪だと騒ぐけれども、もともと日本に神観を根付かせる土壌はないし、神は当然いないとはなから論議もしないし、神無き科学物質主義が隅々まで浸透していて、宗教的精神などそう簡単に理解できるはずがない。信仰の自由の為に戦った経験はなく当然信仰の自由の体感や重さはわからない。個別の信仰を持つこと自体が異質でありカルトと見られてしまい、信仰の自由は法的にはあるかも知れないが信仰の自由の雰囲気や空気などもともとない。敗戦して、神の代替えであった天皇も一人間となられたのは良しとしても、マッカーサーは天皇に代わる神という名の絶対存在を憲法にも謳い教育にもすべきだった。敗戦以降の宗教的権威を今日まで持てなかったのは国体の未だない日本衰退の根本要因だ。周囲の目を恐れる村社会文化はあれど、神を知らず畏れないから愛の精神の何たるかもわからない。政治家や官僚の公的の意味も神民に仕える公僕ではなく、永田町村であり霞が関村のことしか視野にない。それは原理を受け入れた日本食口も同じで、御父母様を現人神と同じと思っていて、良心が研ぎ澄まされずに現人神の御機嫌を取ることにのみ力を注いできた。後天時代に入ってアボジが良心宣言をされても尚、視野の狭い信仰観で教会の中のことしか範疇にない。アボジが聖和されても基元節を超えても尚、日本人が周囲しか見ていないように食口も周囲しか見ていない。今となっては日本食口の口のない忠誠心が裏目に出て、口を開くべき時でさえ何も言えない。

0 件のコメント: