2023年9月16日土曜日

今日の想い 1260

神様は愛がより愛らしくなるために、堕落の淵にあってもアダムとエバに任され、手出しはされなかった。おそらく原理を聞いた誰もが、どうして親なる神は堕落する子に何某かの救いの手を出して止めなかったのかという疑問を持ったはずだ。しかし堕落論を受けたときこの言葉が実に的を得ており、自分自身深く頷いたものだ。そしてそれは自分が親になって子に接するときに生きた言葉となって私を導いた。それぞれの祝福家庭を平面的に捉えて見比べるなら、それほど苦労もせず親が薦める祝福を受け入れる二世や、自分の子供がそうであるように身が削がれるほどに神経を使い涙で訴えても親には従わない二世もいて、この違いをどう捉え受け入れればいいのか相当に悩み気を病んだ。しかし後に振り返れば私はその同じ立場を経験しなければ神様の心情を理解することはないだろうし、私の子供達への愛はより愛らしくなるために更なる愛の苦労を受け入れることもなかった。そう、神様はアダムとエバの堕落以前にも増して、そして今尚、愛がより愛らしくなるために愛の苦労をされておられる。妻の大病や、この世に染まっていく子供をどうすることもできない、そんな置かれた環境に対して神に毒気を吐いてしまう私に、それでも神様は手を差し伸べることはない。そう、愛がより愛らしくなるための私が担う環境圏だ。愛がより愛らしくなるために先ず私は横を見て比べることをやめた。それ以上に私自身がどうか、私の良心に鑑みてどうかという縦を軸にして横第一指向を正した。この地上世界は愛の訓練場だ。光溢れる地上であってもその恩恵を遮断して孤独という愛の減少圏内に住み続ける。光は認識できてもそれを内なる私に受容できなければ光を遮断して生活しているのと同じだ。もし光の中に愛を見ることができれば光を受容できる。愛を見ようとすれば、自ら愛を発する恒星となるべくより愛してみなければ愛はわからない。そう、愛がより愛らしくなるために、、。

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