アボジが聖和されて基元節を超えて見えてきたことは、み言葉を知っていようが知っていまいが、信仰を持っていようが持っていまいが、摂理観が備わっているかいないかとは別ものなのかもしれないということだ。真の父母に繋がっていても、何をもって繋がっているかによって生き様はそれぞれであり、もちろん摂理観のあるなしとは直接的関係はなくなっている。私は摂理の大きな潮流として先天時代から後天時代への移行認識を持つかどうかを上げているが、食口は後天時代という言葉は知っているけれどもその意味をわかろうと行動して、更に認識している食口は実に少数派だ。アボジがマヤ暦の区切りとして2012年12月(そこには付随して人類滅亡説とかもあるのだが)を耳にされて、世間の人々も知っていることは知っているようだと口にされたことがあったが、それは世間のぼんやりとした摂理観だが、後天(開闢)時代について語られ、そしてその先天から後天への転換点である基元節とそれに向けての事細かな宣言のみ言葉に目を通せば、後天時代への内的霊的在り方が詳しく記されている。アボジの摂理観は非常に難解で、摂理観の未だ開けていない私なぞみ言葉との格闘そのものだが、そこに私達も含めた人類への後天時代の在り方は明快に記されている。かつて2009年1月、未確認物体で記したことはあるが、この青白き球体の正体はプレアデス星団の一つだと思っている。先天から後天はマヤ暦長期周期の終わりであり、プレアデスからシリウスであり、魚座から水瓶座であり、そして実体的天一国であり連霊性教会による主管統治だ。統一教会は家庭連合という組合を土台としながら連霊性教会へと位相を上げる。よって後天時代は先天の朧げな霊界認識ではなく、誰もが霊界を認識できる時代であり霊界と通じることで社会を主管統治できる。蒼白き星プレアデス(昴)から霊的手記を受けた谷村新司が地上を去った。時代は既にシリウスの時代だ。地上は狂ったようにDSによる世界一局統治を推し進めているが、支配階級によるピラミッド統治から多様性で多神の共存を受け入れる世界への潮流は止まらない。旧教会は一局統治だが本当の家庭連合は宗教の括りを外した祝福家庭の組合であり並列だ。水瓶座の時代を象徴するように、摂理的大会では様々な宗派の代表が壇上に上がり、それぞれのボトルの水を大きな器に流し込む儀式を行った。皆が相反するのではなく共存してこそ連霊性教会による後天開闢時代が訪れる。
2023年10月23日月曜日
2023年10月18日水曜日
今日の想い 1272
訪米されてACLCから歓待を受けられ、そしていくつかの決意の表明を受けられ喜ばれておられた。いつものごとく、摂理的催事の度に勝利的、希望前進的な発表が今回も為され、食口は浮ついた感情を高める。私はそれが現実逃避であって何も変わらない現状に満足しているとしか思えない。韓国教会を支え、米国教会を支えてきたのは、今解散請求が出されている日本の教会食口だ。もちろん米国摂理であるACLCを支えてきたのもそうだ。日本食口の生活を犠牲にし、そのやり過ぎから恨みまで買いながらもそれでも献金摂理を止めずに支えてきた。私は多くをアメリカで歩んできたから言える立場にないことはわかっているが、謂わば韓国も米国も日本の犠牲の上に胡坐をかいてきたのは事実だ。恨みまで籠っているその献金で一体何を、どういう基盤を築き上げてきたのだろう。ACLC、、? 今この時に御母様の前ではなく日本政府に皆が出向いて抗議すべきだろう。疲れて信仰の火の消えかかった日本食口に、内外のサポートを、それこそ生活を犠牲にしてでもすべきだろう。頑張れ頑張れの声だけ、熱の無い祈りの条件だけ、それが今の疲れ果てた母の国に対する態度だろうか。あまりにも幼稚すぎて、長い年月を通して一体み言葉の何を学んできたのか訝るほどだ。日本からの献金を当てにできないとどうなるか、その勘定だけはできて対処しているようであちこちの所有資産を売却している。要するに視野に入った自分の蛸の足を喰い繋ぎながら生きようという魂胆だ。確かに全国に作ろうとされている天心苑は素晴らしい恩恵かも知れない。真摯な祈りでこそ神霊を受け取れるのはそうだろう。しかし果たして食口達に、特に韓国や米国の食口達に、切実な想いとしての祈れる基台が備わっているだろうか。建物や場所だけ用意すれば神霊は、アボジの霊は降りてくるだろうか。仏つくって魂不在になる心配は私だけだろうか。もはや楽観的で幼稚なお花畑信仰では摂理は担えない。生きる道があるとするなら天からの大ショックが降りて、一端絶望の淵まで落とされてこその、そこから立ち上がる胆力の備わった希望的前進への道だ。
2023年10月16日月曜日
今日の想い 1271
2023年10月14日土曜日
今日の想い 1270
ついに国家的鉄槌が振り下ろされた。裁判に入ると2年3年はかかるとか、国民国家ではなく現政権が判断したのであって戦いはこれからだとか、様々な言い訳が散見されるが、どれもこれも受けいれられない苛立ちと強がりに過ぎない。もし裁判で否決されたとしても政府のお墨付きはかわらず、これから信者の個人や家庭の生活場面にまで深く影響を受けることになるだろう。道義的責任からいえば、組織的献金強要があったということであり、ヤコブの知恵的責任からいえば、常識を乖離し世間や諸官庁を説得できないにも関わらず猿知恵のまま独善的路線を走ったということだ。これから差し押さえられる恐れのある教会経由ではなく、訪韓して信者が直接本部にCASHを渡すことで乗り越えられると、日本食口は献金するのが当然でどうにも献金することに飢えていると言わんばかりに、取り敢えず数千名の二世に動員をかけたらしい。本当にATMにしか見えないのだろうか、そこまでして日本食口は献金自体にこだわっているのだろうか。お金を出すことで世界を救うと口では言いながら、死後の明るい居場所を準備するため献金で天国の分譲地を買っているということか。そんな下心あってのことなら何の同情も得られないだろう。しかし私は今までの献金が下心でも惰性でもなく、純粋な他を思い世界を救う気持ちであると信じたい。人間は神との関係で堕落し、相対関係で堕落し、そして万物主管、お金との関係で堕落する。法外な値段であったり多額な献金量が問題だったと思っているけれども、差し出す方もそれを受け取る方もお金に対する価値が見出せなくなっていた、ということをわかっていない。万物主管という愛の行動であるはずがお金をモノとして扱い愛が関与しない、そうなると万物は必ずその報いを訴えて反乱を起こす。私達は信教の自由に対する迫害というていを取ってはいるが、実のところそれは後付けで、万物復帰に対する大いなる欺瞞、多大な誤解があって、それが万物の反乱を引き起こさせた。富を否定する共産主義者や金の亡者の金融資本主義者ではなく復帰摂理の担い手である教会や食口に於いて、万物の精神性を否定し続け、大量の万物を受け取る側も与える側もお金の価値への感性が失われていた。魑魅魍魎が跋扈する政治や社会にばかり目をむけてああだこうだいっているけれども、私達自身が良心に向き合いながら、摂理に対してどうだったのか、横との繋がりはどうだったのか、お金との向き合い方はどうだったのか、歩みを止めて胸の良心に聞いてみろという天の計らいがあってのことを無視している。
2023年10月12日木曜日
今日の想い 1269
高校を卒業したその足で献身したが、献身してまもなく、当時の勝共摂理として全国の献身者が東京に集結し、朝から晩まで都内でビラ配りをしながら都知事選応援の戦いに臨んだことを覚えている。もちろんただ配るのではなく、一軒一軒訪問して対面で自民公認候補の石原慎太郎に一票をとお願いする。慎太郎の作詞した青年の樹を朝に晩に歌い、訪問しながらも口ずさみ、日を重ねるにつれ盛り上がり内輪では快勝の手応え十分と誰もが信じて疑わなかった。がしかし、選挙日の夕方には早々に左派系の現職美濃部寅吉、三期目の勝利を伝えるニュースが渋谷の電飾広告から流れてきた。皆が驚き中心者にも事の成り行きを尋ねたが、首をひねって視線を外し黙して語らずで、それを見て兄弟たちも黙ってしまい、帰りのマイクロバスの車内は本当に最悪だった。あの摂理から始まって、切れることなく様々な摂理が打ち出されては消え、打ち出されては消えて今に至るが、どれも最初は勝利して当然のような空気が包み、しかし途中の報告があるでもなく、摂理失敗の報告があるでもなくうやむやになって、そのうちに次の新たな摂理が打ち上げられる。そうして打ち上げられた殆どの外的摂理は時間と共にことごとく消え失せ、何の成功体験もなく今に至っている。摂理失敗の責任を誰が取るでもなく、拭うでもなく、もちろん反省も検証もないのであり、霊感何某の経済摂理だって同じで誰も責任を取らないし、反省も検証もしてない。だから表立って説明責任を引き受けて顔を出す者も誰もいない。確かに1991年のアボジの故郷である北朝鮮への訪問と金日成との会談は勝共摂理として全世界が注目する一大イベントだったが、良くいえば大花火の打ち上げ、悪く言えば大風呂敷を広げただけの、名誉名声を得て勝利とする韓国人特有のパフォーマンスに事実上終わった形となった。今となってはそう見える。北韓事業への莫大な投資はアボジが亡くなられると同時に向こうにくれてやった状態で手を引いてしまった。私達は皆、アボジと金日成との勝利的会談で、南北統一も日本人妻問題も、北の軍事的脅威も全て解決されるものと信じていたはずだ。しかし他の摂理同様尻すぼりで、そんな期待があったことも忘れている。教会文化というか慣習にあるのか、過去は忘れて触れないし、ひたすら明日を見つめて歩み続ける。しかしもうそろそろ私達は過去の反省と検証が大切なことを学ぶべきだ。過去の総括なくして未来はありえない。
2023年10月7日土曜日
今日の想い 1268
「 君たちはどう生きるか」という宮崎駿監督の映画が話題になった。正直、この映画を見ていないし、また今のところは見る気もない。レビューを見れば、宮崎監督の哲学気取りの小難しい内容だとわかるし、トトロのような万人受けの映画なら映画館で見てみたいと思うが、本なら読むにしても映画は余裕があるときビデオでも見れれば十分だと思った。これは主題が先ず間違っている。君たちはどう生きるかではなく、君たちはどう死ぬか、を問わなければならない。生と死は対だ。生があって死がないということはありえないし、逆もそうで死があってこその生だ。どう生きるかを問うならどう死ぬかを同じように問わなければ、相対関係上一方を問うだけでは何の答えも導き出せない。おそらく鑑賞者(敢えて鑑賞に値するとして)の9割方は若者だろう。現代の若者特有の認識として、先ず自分が死ぬとは思っていない。勿論頭では理解できても、感情に於いて死ぬことを認めてないので、半永久的に生きると大方が思っている。死を宣告された人であれば異なるが、感情認識として死を受け入れてない人に生の意味を問うのは、ただの机上の空論であって、自分のインテリ感を満足させるだけの経験に過ぎない。同じように自由だ幸せだと、口を突いて出る二世も、死生観を深く捉えているとはどうも思えない。如何に死ぬかを問うてこそ、真の宗教だと思うし、どう生きるかのみを問うのは御利益の教えでしかないだろう。霊界だ何だと頭の知識だけはあったとしても、これは二世だけではなく一世にも言えることだが、知識としてただ知るのと、感情として知るのは死生観に大きな影響を及ぼす。更に肚に落とし込んで、創造本然の本能的でもある指向に繋げるのは死生観に決定的影響を及ぼすようになる。
2023年10月5日木曜日
今日の想い 1267
ブログ村にてシンポジウムの感想をそれぞれ述べているが、どうもどのブログの感想もピンとくるものがない。私に感想を言わせたなら否定のオンパレードになってしまうが、先ず触れるべきは、二世が誰に指示されるでもなく自分の意志でこのシンポジウムを開いているのは、その内容がどうかということは別として喝采したい。口を閉ざして隠れ教会員として密かに生活している一世に比べれば雲泥の差がそこにある。そこが最重要であることに触れておいて、どうでもいい私の感想を述べるとすると、彼らが純粋すぎるのかこの世の人々が狡猾すぎるのか、二世は世間の風当たりの現実を全くわかっていない。人はどう思っていようが自分で信じて信仰しているのに何が悪いのか、という論理では説得に無理があることが全くわかっていないようだった。この世の離婚の多さの問題、家族間の繋がりの問題、そして少子化の問題など社会の問題にも幾らか触れてはいるが、「基本私がしたい信仰をさせて欲しい」が常に前面に出ていた。そして何よりも残念なのは摂理観が立っておらず参加した二世に摂理観はほぼ見て取れない。摂理観のない、個人や家庭の幸せのみを目的にする小乗仏教にも似た信仰観で、一世や親の二世教育は祝福を受ければ幸せになる位のことしか教えてこなかったということだろうか。この期に及んでシンポジウムなんか開いている時かと、教会に賛同的な人でさえ口に出すこんな危機的時期でありながら、私達が犠牲になってでも国の為世界の為に歩んだ事実を全く認めない宗教学者の辛辣な言葉に対して、苦笑して頷く程度の返答ではどうしようもない。正直、私は益々この教会のお花畑さに愕然としてしまった。教会の存続がどうかという以前に、この国の現実を訴え、そして憂い、私達が国の救いに全力を傾けている、その熱情を義憤と涙で訴える多くの食口が全面に現れてこない限り、所詮私達の教会、私達の信仰はこんな程度だったということなのだろう。勝共の勇士烈女、生命を捧げる成約聖徒は皆鬼籍となって地上には既にいないのだろうか。こんなところが私の感想と言えば感想なのだが、角が立たない二世だからこそやれることがあるのかも知れないが、私にはそんな路線で何とかできるとは思えない。最後に質問を宗教学者に投げかけた、女性評論家のあの迫力の押しは、多くの女性食口がかつて持っていたものだが、多くの一世が年老いた今となっては丸く小さくなったということなのだろう。
今日の想い 1266
私の言動は何かにつけて悲観的で否定的だと言われてしまった。突然の言葉にたじろぎ、言葉も返せずせいぜい苦笑いで胡麻化した。確かにそういうところはあって、痛いところを突かれたなと思い返してみたが、食口、特に責任をあずかる食口の何と楽天的なことかと、自分への意見は取り敢えず棚に於いてそんな思いがわいてきた。過去を振り返って思い起こせばなおさらにその思いは強くなった。今回の事件以降の食口達の反応もそうだが、どうも言うほどには悲惨さは受け取れず、この試練を乗り越えれば天の恵みにあずかるなどと、随分能天気に構えてどうでもいい、祈りとも言えない祈祷条件を供えていたりする。確かに未来志向は大切だが、それが楽天的とはならない。そして責任の重さをより感じれば感じるほどに、当然に悲観的感情を先ず覚えるはずだ。しかしその感情を乗り越えて自らの責任分担を全うすることに集中し、事の成否は天に任せ天が下すのを覚悟して待つということだ。悲観的切実な責任感情も覚えず、最初から楽天的に構えて振舞う責任者を多く見てきたが、決まって不本意な結果を見てきた。そういう無責任な臭いを放つ食口や責任者を私は信じない。そしてそういう能天気で無責任な輩は教会内に多い。皆を扇動すべく甘い夢を見させるという大法螺を吹きながら貴重な時を費やして、半世紀も経って伝道や経済の基盤という基盤が殆ど培われていないこのていたらくだ。
2023年10月2日月曜日
今日の想い 1265
こうなることはわかっていたけれども、やはりそうなったかという、言葉にならない思いがある。それでもまだ請求は第一段階で、これから司法に委ねられて表向きは審議されるとして早くても一、二年はかかるだろう。しかし結果は既に決まっている。内部改革どころか内部から闊達な意見交換すら出てこない組織に堕し、変わるためには外圧しか当てにならないところまできてしまった。あれほどに身も心も捧げて投入してきた教会摂理だったはずなのに、方向性が歪められて久しく、修正しようもなくついにここにまで至ってしまった。私自身はもはや教会が存続することに何の意味も見出せないが、しかしこんな道義もない外圧で解散されるとなると、献身してほぼ一生を捧げて歩んできた身としては砂利石を嚙むような思いだ。それこそ私の青春を返せだ。初期のK会長の講演動画がアップされていたので、見るとはなしに見始めたが、まだ幼くも燃えていた当時の自分を思い出して目頭が熱くなってきた。こうなったのは他の誰の責任でもない。私を含めた全ての一世の責任であって、一世は被害者でもなければ他の誰かに責任を問える立場にはない。本当に正しい道だと信じて歩んだのか。おかしいことは分かっていながら声に出さないことを選んだのではないだろうか。灰を被って断食でもして形だけでも悔い改めるべきだ。そして重い口を開いて無理にでも責任者批判なり自らの想いをぶつけるべきだ。あまりにも一般食口はおとなしすぎる。昨日、また一人の先輩が霊界に発たれた。御本人は義憤の人であったから、誰彼構わずおかしいものはおかしいと声を荒げておられたが、それでも一点の曇りもなく発たれた訳ではないだろう。少なからず初期に復帰された一人として無念の想いを抱かれていたはずだ。その想いが病を一気に悪化させた。聖和の報せを受けて、一緒に歩んだ頃よく言われた言葉を今更に思い出す。それは「朝を奪われない者が勝者となる」という言葉だ。どんな牧会者ぶりして分かったような説教を受けるよりも、それは本人が貫いて得た生きた言葉だった。 合掌