高校を卒業したその足で献身したが、献身してまもなく、当時の勝共摂理として全国の献身者が東京に集結し、朝から晩まで都内でビラ配りをしながら都知事選応援の戦いに臨んだことを覚えている。もちろんただ配るのではなく、一軒一軒訪問して対面で自民公認候補の石原慎太郎に一票をとお願いする。慎太郎の作詞した青年の樹を朝に晩に歌い、訪問しながらも口ずさみ、日を重ねるにつれ盛り上がり内輪では快勝の手応え十分と誰もが信じて疑わなかった。がしかし、選挙日の夕方には早々に左派系の現職美濃部寅吉、三期目の勝利を伝えるニュースが渋谷の電飾広告から流れてきた。皆が驚き中心者にも事の成り行きを尋ねたが、首をひねって視線を外し黙して語らずで、それを見て兄弟たちも黙ってしまい、帰りのマイクロバスの車内は本当に最悪だった。あの摂理から始まって、切れることなく様々な摂理が打ち出されては消え、打ち出されては消えて今に至るが、どれも最初は勝利して当然のような空気が包み、しかし途中の報告があるでもなく、摂理失敗の報告があるでもなくうやむやになって、そのうちに次の新たな摂理が打ち上げられる。そうして打ち上げられた殆どの外的摂理は時間と共にことごとく消え失せ、何の成功体験もなく今に至っている。摂理失敗の責任を誰が取るでもなく、拭うでもなく、もちろん反省も検証もないのであり、霊感何某の経済摂理だって同じで誰も責任を取らないし、反省も検証もしてない。だから表立って説明責任を引き受けて顔を出す者も誰もいない。確かに1991年のアボジの故郷である北朝鮮への訪問と金日成との会談は勝共摂理として全世界が注目する一大イベントだったが、良くいえば大花火の打ち上げ、悪く言えば大風呂敷を広げただけの、名誉名声を得て勝利とする韓国人特有のパフォーマンスに事実上終わった形となった。今となってはそう見える。北韓事業への莫大な投資はアボジが亡くなられると同時に向こうにくれてやった状態で手を引いてしまった。私達は皆、アボジと金日成との勝利的会談で、南北統一も日本人妻問題も、北の軍事的脅威も全て解決されるものと信じていたはずだ。しかし他の摂理同様尻すぼりで、そんな期待があったことも忘れている。教会文化というか慣習にあるのか、過去は忘れて触れないし、ひたすら明日を見つめて歩み続ける。しかしもうそろそろ私達は過去の反省と検証が大切なことを学ぶべきだ。過去の総括なくして未来はありえない。
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